宗教改革の風雲児マルチン・ルターによる血と涙の名言2選です。
ヨーロッパ中で死病ペストの猛威がふるっております。
農民たちは貧しい中、領主階級たちに寄ってたかって税金をむしり取られ、ムチャな奉仕をいっぱいさせられております。
また、商工業が盛んになり、お金を持った商人が世の中で力を持ち始めました。
さらに、1453年のコンスタンティノープル陥落。
ヨーロッパキリスト教世界における東の牙城であったビザンツ帝国がイスラム強国オスマントルコによってついに滅ぼされました。
こんな激動にあってローマカトリック教会は、ますます世俗丸出し。
戦争、政治、とうとう贖宥状(「これ買うとあなた天国に行けますよ」という証明書)を乱発。
わがまま放題、うさんくささ満載に大芸術家ミケランジェロもしらけ気味です。
「こんなムチャクチャいけません。キリスト教会よ、もとあった聖書の教えにもどれ!」
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マルチン・ルター名言集2選
聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない
ユリウス2世、レオ10世、
と言えばルネッサンスの芸術家ミケランジェロやラファエロともとってもなじみのローマ教皇たちです。
特にもともと貧しい身の上から育ちあがり、権謀術数のかぎりをつくし、戦陣にも自身立ってみせたユリウス2世が聞けば、
「酔っぱらったドイツ人(ルターは大のビール好きです)が議論上戸に熱が回ったか」
くらいに苦笑したかもしれません。
「システィーナ礼拝堂の天井に現れたあの偉大な“神の奇跡”(ミケランジェロ作の天井画のこと)。
聖書が作り上げたのだろうか?大事なのは“(聖書を)持てるだれか”がいること。ちがうかね?」
というのがユリウス2世のスタンス。
跡を継いだ平和的なレオ10世も、
「“外の世界”というものをまったくわかっとらん“修道士上がり”だな」くらいになめておりました。
ルターはもと修道士。その後大学教授などをやっているうちに、だんだんカトリック教会のありさまへの違和感をおさえられなくなります。
そして、とうとう“プロテスト(反攻)”するようになってしまいました。カトリックに反抗する信徒たちを後に“プロテスタント”と呼ぶようになります。
が、世の流れですね。
農民は当時のローマカトリック教会が牛耳ってるような秩序に“うんざり感満載”でした(農民「贖宥状って……。天国までも金持ち有利なんかい!」)。
ドイツなどの商人にとってはイタリアにお金が流れてばかりでは商売あがったりです。
ビザンツ帝国が崩壊して、そちらからギリシャ語の聖書のオリジナルなども入ってきます。
すると、「あれ?今まで信じてたラテン語の聖書ってまちがってたんだ」
てなことにもなり、……。
もはやこの一大ムーブメントを教皇も放置できません。
そこで、いつものやつです。
「マルチン・ルター。“神”の言うことを聞きなさい。さもなくばなんじを破門に処す。」
するとなんと、マルチン・ルターはこの教会文書を人々の前で燃やしてしまいます。
レオ10世「破門!!」
これに「やべえな」と感じたのは神聖ローマ皇帝カール5世。
帝国内のややこしい事態をなんとか収めようと、ヴォルムス帝国議会を招集。
もちろん、カール5世は「おい、わかってるよな」と“彼”に圧をかけます。
が、証言台に立った“彼”はついに堂々言ってのけてしまいました。
上の名言です。
神は憐(あわ)れみたもうた
出典:『ライフ人間世界史7宗教改革』TIME LIFEより
マルチン・ルターはなぜか若いころから、
「自分は神に助けられるような者じゃない」
とおびえて暮らしておりました。
修道士になって人一倍まじめに修道士としての教えを守り、とてもストイックに生きているのに、です。
ところが、ある時ふと悟ります。
「神は“正しい行い”にあわれみを与えるのではない。“信仰”に、だ」
つまり、“神を求める”その心自体に神は恵み(ガラシア)を与えてくれる、というのです。
このあたりはルターならではの論理です。
きょうのまとめ
当時のローマカトリック教会は念願通り土地やバチカンの華麗な装飾を手にしました。
が、ヨーロッパの半分を失いました。
① マルチン・ルターは「聖書原典主義に立ち返る」として神聖ローマ皇帝にもはっきり異を唱えた
② マルチン・ルターの“聖書回帰運動”はちょうど時代の流れとも合い、ヨーロッパ広くをまきこむ一大ムーブメントとなっていった
③ マルチン・ルターは苦行と研究の果てに、「行いより信仰だ」という独特の宗教観に行きついた
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出典:Wikipedia 「マルティン・ルター」