前原一誠とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末の維新志士のひとり、

前原一誠まえばらいっせい

その人となりは吉田松陰をして、右に出る者がいないと言わしめるほど。

正義感を頼りに、長州藩士として新しい日本のために奔走した人物です。

しかし新政府成立後は戦功も報われない最期を迎えることに?

それもまた、一誠の思いやりに溢れた人となりからの経緯なのですが…。

前原一誠とはいったいどんな人物だったのか、その生涯から垣間見ていきましょう。

 

前原一誠はどんな人?

プロフィール
まえばらいっせい

前原一誠

  • 出身地:長門国ながとのくに土原村(現・山口県萩市)
  • 生年月日:1834年4月28日
  • 死亡年月日:1876年12月3日(享年42歳)
  • 明治維新に奔走した長州藩士。長州征討、戊辰戦争などで参謀として多くの戦功を挙げた。維新後は、政府への不平士族を束ねて「萩の乱」を起こし、非業の死を遂げる。

 

前原一誠 年表

年表

西暦(年齢)

1834年(1歳)長門国ながとのくに土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七の長男として生まれる。

1857年(23歳)吉田松陰の松下村塾に入門。藩の西洋学問所や、長崎にて洋学を学ぶ。

1862年(28歳)長州藩で開国論を唱えていた長井雅楽ながいうたの暗殺を、久坂玄瑞くさかげんずいらとともに計画する。

1863年(29歳)下関戦争にて四カ国連合に敗北し、思想を倒幕へと傾ける。

1865年(31歳)高杉晋作率いる功山寺挙兵に参加し、藩の幕府恭順派を制圧。藩論を倒幕へ決定づける。

1866年(32歳)第二次長州征討にて、参謀として「小倉口の戦い」に出陣。長州藩を勝利に導く。

1868年(34歳)戊辰戦争に参戦。主に会津藩との戦いで活躍する。

1869年(35歳)明治政府成立に伴い、越後府判事、参議、兵部大輔を歴任。

1870年(36歳)徴兵制の導入を巡って、木戸孝允きどたかよし山縣有朋やまがたありともらと対立。辞職し萩へ戻る。

1876年(42歳) 藩校・明倫館にて政府への不平士族たちを決起。「萩の乱」を主導するも鎮圧され、処刑される。

 

青少年期

まずは前原一誠の青少年期からみていきましょう。

一誠と改名

1834年、前原一誠は長門国ながとのくに土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七の長男として生まれます。

幼名は佐世八十朗やさろうといい、のちに同じ長州藩の前原氏を相続したことから、前原一誠と改名。

一誠という名は、師である吉田松陰から教わった孟子の言葉

孟子
至誠しせいにして動かざる者、未だこれあらざるなり

(誠心誠意向き合えば、必ず人の心を動かすことができる)

に感銘を受けてのものだといいます。

そして一誠は、まさにこの言葉にならったかのような生涯を送っていく人物なのです。

中級武士ながら世知辛い家計

一誠の父・彦七は長門国厚狭郡あさぐんの役人を務める中級武士でした。

しかしいくら中級武士といってもその数は飽和しており、藩からもらえる俸禄は微々たるもの。

そのため一誠も農漁業や陶器の製造などで家計を支えるという世知辛い幼少期を過ごしたといいます。

落馬による怪我から学問を志す


出世の道が見出し難いそんな家系に生まれたことに加え、一誠は幼少から病弱であり、もとより武術には不向きでした。

あるとき、そこに追い打ちをかけるように、落馬による怪我で足に障害を患い、武士の本分である武術を完全に諦めざるを得なくなってしまいます。

しかし皮肉なことにこの出来事が、のちに長州征討や戊辰戦争で参謀として活躍する彼の基礎を作ったともいえるのです。

そう、一誠はこの逆境に際しても決して出世を諦めず、武術を完全に捨て、学問に傾倒することで身を立てようとするのです。

 

吉田松陰への師事

一誠は24歳になると、長州藩士・吉田松陰の主宰する松下村塾へ入塾します。

教えを受けたのはわずか10日間

松下村塾は高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋やまがたありともらが在籍した私塾で、のちの明治維新に欠かせない人材を育てたことで知られています。

松陰といえば、海外列強が押し寄せる幕末の世において、アメリカ船に乗り込み現地で学びを得ようとするような、破天荒すぎる行動力をもった人物。

幕府が外国の圧力から開国へ向かうなか、なんとか別の手立てで状況を打破できないかと動き回っていたのですね。

松蔭はこののちも、天皇の意に背いて日米修好通商条約を結んでしまった幕府に怒り、老中・間部詮勝まなべあきかつの暗殺計画を藩に提出しており、その影響から投獄されています。

そのため松下村塾の生徒たちが師事した期間は非常に短く、一誠にいたっても教えを受けたのはわずか10日間ほどのことでした。

ともあれ、このわずかな期間に塾生たちは松陰の熱意溢れる指導に触れ、彼の唱える攘夷論じょういろんに傾倒していくこととなります。

(※攘夷論…外国のものを排除する考え方)

松陰をして「人となりでは誰も敵わない」と言わしめた一誠

実のところその松陰から、一誠は塾生のなかで一目置かれる存在でした。

松陰が一誠を評して言った言葉が以下の通り。

松蔭
その才、久坂玄瑞くさかげんずいに及ばず。その識、高杉晋作に及ばず。しかしその人物の完全なること、二子また八十やさ(一誠)に及ばざること遠し

要するに

「才能なら久坂玄瑞が一番。知識なら高杉晋作。だけど、人となりで見れば二人は一誠に到底敵わない」

ということです。

一誠は松陰をして誠実そのもの。

塾生のなかで一番優れた人間性を備えていると評されていたのです。

伏見要駕策を巡るいざこざ

たったの10日間を共に過ごしただけで、松陰に「人として完ぺき」と言わしめてしまう一誠。

いったいどんなやり取りから、松陰がそう思いいたったのか気になるところ、ひとつ興味深いエピソードがあります。

それは松陰が間部詮勝の件で投獄されていた最中の話。

彼はまったく懲りもせず、獄中でも熱心に次なる作戦を練っていました。

名付けて伏見要駕策ふしみようがさく

これもまた大胆な作戦で、長州藩主・毛利敬親たかちかの大名行列を京都伏見で待ち伏せし、引き止めて説得。

そのまま御所に出向いて天皇に幕府の過ちを直訴しようというものです。

松陰は説得を依頼する相手を攘夷派の公卿・大原重徳おおはらしげとみに定め、塾生を動かしますが…

この計画はあえなく失敗してしまいます。

というのも、計画が実行される前に藩に知られてしまい、塾生が捕らえられてしまったから。

そして藩にこの計画を話してしまったのが一誠だったのです。

この一件で松陰は一誠に絶交を言い渡す事態に。

しかし一誠の誠心誠意の謝罪により、結局和解するにいたったといいます。

松陰は

松蔭
計画に反対した塾生は全員絶交だ!

とブチギレていたのですが、

一誠
今回のことはすべて私の責任です。私との絶交はやむを得ませんが、ほかの塾生とは考え直してくれませんか?

という一誠の姿勢から、考えを改めたのだとか。

松陰が一誠を「人として完ぺき」と言った理由は、このように自分を差し置いて他人のことを考えられる部分にあったのかもしれません。

松陰の助言で洋学を学ぶ

ところで、一誠が藩に松陰の計画を漏らしてしまったことにも、ちょっと微笑ましい(?)理由があります。

一誠はこのころ、藩から長崎への遊学を命じられていました。

これを聞いた松陰は

松蔭
長崎へ行くなら、洋学を学んでくるといいぞ

と、アドバイスをしたのだとか。

長崎は江戸時代、オランダ商館を通して海外との貿易が唯一許されていた場所。

そこでなら最先端の知識が学べると、松陰は睨んだわけですね。

この助言に嬉しくなった一誠は、松陰とのいきさつを語るなかでつい、計画のことも口走ってしまったといいます。

一誠
松陰先生からこんなアドバイスをもらったんだ!で、松陰先生はこんなすごいことも考えていて!

と、尊敬する相手のことを次々に話したくなる気持ち、わからなくもないですよね…。

ともあれ、そんな松陰のアドバイスがあったため、このあと一誠は長崎や藩の西洋学問所・博習堂にて、洋学への知識を深めていくことになるのです。

これもまた、のちの名参謀を育てるために欠かせない出来事だったのでは?

 

攘夷から倒幕へ

松陰がそうだったように、日米修好通商条約の締結以来、長州藩士の多くは攘夷の思想に傾いていきます。

日米修好通商条約がアメリカ優勢の不平等条約だったためです。

現に大量の輸出などで国内に不況の波も押し寄せており、このままでは海外諸国の思うままにされてしまう…という状況。

こういったことを懸念し、孝明天皇は条約締結を認めなかったのです。

それでも条約を締結してしまった幕府は藩士たちの反感を買い、攘夷、やがては倒幕の思想が芽生えてくるわけですね。

一誠の攘夷運動


当時の長州藩上層部の論はあくまで

・海外のものを積極的に取り入れていくべきだ

・幕府を悪とするのではなく、今後は朝廷と手を取って政治を行い、強い国を作っていこう(公武合体こうぶがったい

というものでした。

これは長州藩の重役である直目付じかめつけ長井雅楽ながいうた「航海遠略策」という論に基づくもの。

要は藩士には幕府に不満を抱く者がいても、トップの考えが幕府を擁護しているため、藩を挙げての行動には移せない状況にあったのです。

この状況を見て、1862年、一誠は久坂玄瑞らとともに、長井雅楽の暗殺計画を企てます。

計画自体は失敗してしまうのですが、その余波で排斥はいせき運動は続き、事態は長井が朝敵と捉えられ、切腹を命じられるまでに発展。

こうして長州藩の藩論は攘夷へと転換されるにいたります。

下関戦争をきっかけに倒幕へ


…と、攘夷へと転換されたはずの藩論は、1863年の下関戦争にて、海外列強の四カ国連合長州藩が惨敗したことで、あっけなく崩れてしまいます。

要は実際に戦ってみて

「外国人強すぎ!このまま攘夷とか言ってたら、日本だけ取り残されてしまうぞ!」

と、藩士の誰もが思い知らされたわけですね。

この流れから一誠ら攘夷派は

「結局、諸悪の根源は幕府!海外の文明を取り入れるにしても、幕府を倒して新しい政府でやるべきだ!」

という考えに行き着くのです。

ところが、下関戦争の一見から長州藩を危険と見なした幕府は

・八月十八日の政変

・禁門の変

を通じて、京から長州藩を追放。

そこから長州征討へと転じ、長州藩を徹底的に弾圧しようとします。

そのため藩士には

「大人しく幕府に従うことにしようよ…」

と言い出す、幕府恭順派が表れるように。

しかし一誠は、高杉晋作らとともにクーデターを起こし、この幕府恭順派を制圧(功山寺挙兵)。

こうして藩論は完全に倒幕へと向かうことになります。

…紆余曲折あってややこしいですが、それだけ何を信じればいいかわからない時代だったということでしょうか。

 

長州征討・戊辰戦争での活躍

幕末の動乱において、一誠が一番の活躍を見せたのが1866年に行われた「第二次長州征討」でしょう。

この戦争にて一誠が参戦したのは、関門海峡をまたいで九州への入り口となる小倉を舞台にした「小倉口の戦い」

実はこの局面が、長州征討で長州藩が勝利を収める重要な戦いとなるのです。

小倉口の戦いにおいて、幕府軍は小倉藩、熊本藩を始めとする九州の諸藩を集め、総勢2万の軍勢で長州藩を待ち構えます。

対する長州藩は藩士を総動員してもせいぜい数千というところ。

しかしなんと、この小倉口の戦いで奇襲作戦をしかけ、長州藩は幕府軍を下してしまうのです!

作戦は、幕府に

「いつでも攻めてこいよ!」

と挑発する文書を送り、自領の守りを固めるように見せかけ、敵が油断したところを九州に上陸。

そのまま幕府の用意した船を次々焼き払ってしまうというものでした。

最後は将軍・徳川家茂の急死という追い風に、敵方が動揺しての勝利となります。

そして運さえも味方につけたこの戦いにて、一誠は参謀を務めているんです!

続く戊辰戦争にも参謀として参戦し、幕府側についた会津藩を追い詰めました。

怪我や病気を理由に武術の道を断念し、学問を志した努力。

それが軍の作戦を司る参謀の手腕として花開いたのですね!

 

新政府成立後の対立

1868年、長州藩、薩摩藩らによって倒幕が成され、明治政府が成立します。

実はここからが一誠の生涯において、一番波乱に満ちた部分でした。

新政府の要職を歴任


新政府の一員となった一誠は

越後府判事(現・新潟県):越後の行政を司る官職

参議:政治の最高機関に属する官職

兵部大輔ひょうぶたいふ:国の軍事のトップ

などの要職を歴任

越後府判事を務めた際は政府の反対を押し切り、独断で年貢を減額して批判を浴びたり…。

そんな感じの揉めごとはあったものの、おおむね順調なキャリアに思えます。

しかしなんと一誠は、新政府成立から2年足らず、1870年には政府を辞してしまうのです。

なんでそんなに早く…?

原因は同じ長州藩出身の木戸孝允たかよし、山縣有朋らと「徴兵令」を巡って対立したことにありました。

徴兵令…?一誠が反対した理由は…?

奪われた武士の特権

明治政府が成立後に立てた政策は、第一に武士階級を廃止しようというものでした。

この部分で一誠は政府と相容れないものがあったのです。

その内容は…

徴兵令:年齢に応じて、国民全員に出兵の義務が課される(戦いが専売特許だった武士の存在意義は…?)

廃藩置県はいはんちけん:地方を武士が自治していた藩制を廃止。全部政府が管理する(武士の仕事はどうなるの?給料は?)

廃刀令:刀の持ち歩きを禁止(見た目で武士だって判断できなくなるよね…)

四民平等:士農工商は全部平民(武士は上流階級だったのに!?)

といった感じ。

鎌倉幕府の成立から約700年、武士は日本の政権を欲しいままにしてきた階級です。

そのままの形で武士を残しておけば、またいつ政府転覆が謀られるかわからない。

そういった考えから、新政府の面々は上記のような政策を打ち立てたのです。

でも…

戊辰戦争で幕府と戦い、明治政府を成立させたのは武士なのに。

武士たちはみんな

「武功を挙げれば偉い大名に掲げてもらえるぞ!」

と思って頑張っていたのに。

やはり不平を覚える武士は多く、一誠はそんな彼らに同情せずにはいられなかったのです。

もちろん、いきなり職を奪われた武士が困らないよう、政府は「秩禄ちつろく」という失業保険のようなものも設けていました。

しかし1876年のこと、その秩禄が廃止されたことによって、事態は急変を迎えます。

不平士族を集め「萩の乱」を主導

1876年10月、

・熊本にて「神風連の乱」

・福岡にて「秋月の乱」

という、不平士族による政府への反乱が相次いで巻き起こります。

この動きに呼応し、一誠は旧藩校・明倫館にて長州の不平士族を決起。

新政府への不満を天皇に直訴しに行くという名目で「萩の乱」を起こします。

結果、多くの藩士は萩の市街戦で鎮圧されることに。

一誠は彼らに後を託され、海路で東京を目指します。

ところが悪天候に見舞われ、島根県に入港したところを通報され捕縛。

有無を言わさぬまま、斬首の刑にて生涯を閉じます。

考えてみれば、一誠はもともと政府の要職であり、政策によって被害を被る当事者ではありません。

なら、ただ周囲の士族たちの行き場のない思いを汲むためだけの反乱だったのか…?

皮肉にも周囲を思いやれるその人となりによって、非業の死を遂げることになったのですね。

 

きょうのまとめ

前原一誠は、海外列強の脅威が迫った幕末に倒幕を掲げ、日本の新時代を築いた一員。

しかし必死に築いたはずの新時代は、彼の望むものではなかったようです。

明治維新といわれると、日本が一気に近代化した革新的な側面に目を奪われがちですが、一方で犠牲になるものも多かったということですね。

一誠はその死をもって、明治維新という出来事を今一度、私たちに考え直す機会を与えてくれているように感じます。

最後に今回のまとめです。

① 前原一誠は松下村塾で吉田松陰の教えを受けた。松陰は一誠を「才能や知識ではほかに劣るが、人となりで敵う者はいない」と評した。

② 高杉晋作らとともに挙兵し、藩論を倒幕に導く。長州征討・戊辰戦争では参謀として長州藩の勝利に貢献した。

③ 新政府成立後、武士の特権を奪う政策が次々に施行され、政府と対立する。その流れから長州の不平士族を束ね「萩の乱」を勃発させた。

明治維新…一誠だけでなく、さまざまな人物の観点からこの事象を見てみると、また違った気付きがあるかもしれませんね。

 
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