明治という時代に
「海外文化が広まり、街の雰囲気が一気に西洋化した」
というイメージをもっている人は多いのではないでしょうか。
今回はその風潮の根源となった人物、「日本の西洋建築の父」と呼ばれる
ジョサイア・コンドルのお話です。
コンドルは政府機関である工部省にお雇い外国人として来日し、西洋建築の知識をもった建築家を多数育てた人物。
自身の建築物としても「鹿鳴館」をはじめとする政府関係の施設や、財閥関係者の邸宅など、重要文化財とされるものも多くを手掛けています。
ジョサイア・コンドルとは、いったいどんな人物だったのか。
その生涯を通して迫っていきましょう!
タップでお好きな項目へ:目次
ジョサイア・コンドルはどんな人?
- 出身地:ロンドン・ケニントン
- 生年月日:1852年9月28日
- 死亡年月日:1920年6月21日(享年67歳)
- 日本に西洋建築の技術を伝えた建築家。大学教授として多数の有名建築家を輩出した。建築物としては政府の外交施設「鹿鳴館」、または丸の内に西洋の街並みを実現させた「三菱一・二・三号館」が有名。
ジョサイア・コンドル 年表
西暦(年齢)
1852年(1歳)ロンドン・ケニントンにて、銀行家の父・ジョサイアと母イライザの次男として生まれる。
1864年(12歳)父・ジョサイアが亡くなる。
1865年(13歳)ベドフォード商業学校に入学。
1869年(17歳)親戚の建築家トーマス・ロジャー・スミスのもとへ下宿。働きながらサウスケンジントン美術学校、ロンドン大学にて建築学を学ぶ。
1873年(21歳)ゴシック建築の権威ウィリアム・バージェスの建築事務所に入所。
1875年(23歳)デザイナー、ワルター・ロンスデールのもとでステンドグラスを学ぶ。
1876年(24歳)イギリス王立建築家協会の設計競技にて、ソーン賞を受賞する。
1877年(25歳)工部省のお雇い外国人として来日。工部大学校造家学(現・東京大学工学部建築科)・工部省営繕局顧問を務める。
1881年(29歳)日本画家・河鍋暁斎に弟子入りする。
1883年(31歳)政府の外交施設・鹿鳴館を設計。竣工される。
1886年(34歳)東京の近代化を目指した「官庁集中計画」の一環で生徒たちとドイツ・ロンドンを訪れる。
1891年(39歳)日本最大の大聖堂・ニコライ堂を設計。竣工される。
1893年(41歳)舞踊家の前波くめと結婚。
1894年(42歳)丸の内総合改造計画により、三菱一号館を竣工。勲三等瑞宝章を授与される。
1914年(62歳)工学博士号を授与される。
1920年(67歳)脳軟化症により、東京・麻布の自宅にて没する。
ジョサイア・コンドルの生涯
ここからはジョサイア・コンドルの生涯にまつわる詳しいエピソードを辿っていきましょう!
建築家を志した青年期
1852年、ジョサイア・コンドルはロンドン・ケニントンにて、銀行家の父・ジョサイアの次男として生まれます。
祖父は鉄道事業で財を成した事業家、親戚筋にもエリートの多い貴族家系に生を受けたコンドル。
しかし12歳のころに父が他界すると6人兄弟を支える家計は切迫し、進学にも事欠く状況に陥ります。
そのため13歳から通うことになるベドフォード商業学校への進学は、母子家庭向けの奨学制度を利用して、なんとかこぎつけたものだったのだとか。
こののち、コンドルは建築学に興味をもつようになりますが、彼がその道を進むべく選んだ進路は、当時の建築家志望者として少し特殊なものでした。
ベドフォード商業学校を卒業したコンドルは、親戚の建築家トーマス・ロジャー・スミスのもとで働きつつ、サウスケンジントン美術学校、ロンドン大学にて建築学を専攻。
つまり現場で実際の職業に従事しつつ、学校教育で体系的な知識を身につけていくという二段構えの下積み時代を過ごしたのです。
その後、21歳になるとイギリスでゴシック建築の権威とされていたウィリアム・バージェスの建築事務所へ入所。
続いてデザイナーのワルター・ロンスデールのもとでステンドグラスの技法についても学ぶなど、コンドルはさまざまな環境に身を置き、建築技術を身につけていきました。
この建築学への飽くなき探求心と情熱が、彼の生涯のキャリアを支えていくこととなります。
転機となった「ソーン賞」の受賞
コンドルの転機は1876年、イギリス王立建築家協会主催の設計競技にて「ソーン賞」を受賞したときのことでした。
ソーン賞はイギリスの建築家新人賞のなかでは最高の位置付けとされており、受賞すれば一躍、人気建築家に名を連ねられるほどの賞です。
そして同年、日本の工部省から声がかかり、お雇い外国人として来日することに。
その経緯は謎とされていますが、ソーン賞のネームバリューがコンドルの斡旋に一役買ったことはほぼ間違いないでしょう。
興味深いのは、コンドルが日本でのキャリアを選んだことが、ある種英断だったという話。
なにせ、有名な賞を受賞してイギリスでの活躍が保証されている状況にも関わらず、彼は日本へやってきたのです。
動機は何より日本文化への興味から。
コンドルの師ウィリアム・バージェスは、建築デザインの参考として東洋の文化に興味をもち、日本画の収集なども行っていました。
そんな師匠のもとで育ったコンドルもまた、その暮らしのなかで日本への想いを募らせていたのです。
工部大学校教授として来日
こうして1876年に来日したコンドルは、工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の教授に就任。
日本で偉人とされていることから、すでにイギリスでは権威とされていたのかと思いきや、このころはデビューしたての新人だというのも意外ですね。
とはいえ現場と学校教育でみっちりと養ったコンドルの知識はたしかなもので、この教授生活でも多数の名建築家を輩出しています。
・片山東熊:東京国立博物館・旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)を設計
・曽禰達蔵:コンドルと共に丸の内の赤レンガ街を設計
・佐立七次郎:日本水準原点標庫・旧日本郵船小樽支店などを設計
上記はコンドルが指導を担当した一期生の面々。
実際に彼らが設計した施設へ行ったことがある、聞いたことがあるという人も多いかもしれませんね。
そう、コンドルが「日本の西洋建築の父」と呼ばれているのは、実際の建築業というよりも、優れた後進を育てた功績による面が大きいのです。
教鞭を執るかたわら政府関係の建築を多数担当
工部大学校で教鞭を執っていたコンドルは、そのかたわら工部省営繕局顧問として、政府関係の建築物を多数手がけています。
・1880年:開拓使物産売捌所
・1882年:上野博物館
などなど。
このころの西洋建築は土地柄に合わせ、さまざまな時代の建築様式を反映していくのが習わしでした。
隅田川沿いに建てられた開拓使物産売捌所は、水の都と呼ばれるヴェネチア風の様式。
上野博物館は西洋と日本の中和を狙ったインド・イスラム風の様式が用いられるなど、一言に西洋建築といっても、その特徴が多岐に渡っているのがおもしろいですね。
鹿鳴館の建築は失敗だった…?
そしてコンドルが設計した政府の施設で外せないのは、やはり1883年に竣工された鹿鳴館でしょう。
このころ、井上馨外務大臣は各国との不平等条約改正に奔走しており、鹿鳴館はそのための外国人との社交の場として建築された施設でした。
これまでの日本にはない、華やかなパーティ会場として大いに注目を集めた鹿鳴館は、コンドルが残した建築物の代名詞です。
しかし…井上大臣は掲げた改正案が多くの反感を買ったことにより、1887年に失脚。
これにより不平等条約改正の計画は頓挫し、鹿鳴館は無用の長物となってしまいます。
コンドルは東京に西洋仕立ての政府施設を集めて近代化させる「官庁集中計画」にも関わっていたのですが、その話も井上大臣の解任で白紙に。
工部省時代のコンドルは、意外に手痛い経験を多くしているのですね…。
丸の内の赤レンガ街を設計
1888年に講師業・工部省から離れたコンドルは自ら建築事務所を設立。
以降は三井、三菱など財閥関係者の邸宅をメインに手掛けていきます。
そんな財閥御用達の建築士となったコンドルの目玉となる大仕事が、1894年から行われた「丸の内総合改造計画」です。
これは
「丸の内にロンドンやパリにも負けないぐらいのオシャレなオフィス街を作る」
という、前代未聞の挑戦でした。
依頼を受けたコンドルは教え子の曽禰達蔵を呼び寄せ、共同で計画を実行。
1894年に赤レンガ造りの「三菱一号館」が竣工されたのを始めに、「三菱二号館」「三菱三号館」と、立て続けに巨大な西洋建築が丸の内を彩ることになります。
さながらロンドンのようになったその街並みは、「一丁倫敦」の異名で親しまれることに。
まさに一世一代の大仕事という感じ。
スケールの大きさに圧倒されますね!
関東大震災でもびくともしなかった三菱一号館
コンドルは地震大国である日本において長年に渡る地質調査を行っており、この時期に建てられた三菱一号館はその集大成となります。
徹底された耐震設計が施された三菱一号館は、関東大震災ではびくともせず、避難所として多くの人々の受け入れ場所となったのです。
また教え子の辰野金吾が設計した東京駅も同じく避難所になっており、耐震設計に関してその教えがしっかり受け継がれていることがわかります。
1891年、マグニチュード8.0の規模を誇る濃尾地震が起こった際には、建築学会にて研究結果をまとめた演説も行っており、これは学会誌にも掲載されました。
西洋建築というと、「近代化」「オシャレ」のようなイメージがまず浮かびますが、コンドルが日本にもたらした建築物の改革は、そういった見てくれだけのものではないのです。
日本で建築を行っていくにあたり、日本という土地を徹底的に研究しつくしたコンドル。
その建築技術は現代にも受け継がれ、私たちの安全・安心を守ってくれています。
日本の魅力を諸外国に広めたジョサイア・コンドル
建築家としての活躍はもはや枚挙にいとまがないコンドルですが、海外では日本研究家としても知られていたりするんですよ。
コンドルは
・茶道
・華道
・日本庭園
・伝統衣装
などに興味をもち、日本庭園に関しては『Landscape Gardening in Japan』、華道に関しては『The Floral Art of Japan』など、海外向けに解説した書籍をいくつか出版しています。
コンドルは日本に西洋建築を伝えただけでなく、日本の魅力を諸外国に伝える伝道師の役割も担っていたのですね。
日本画家・河鍋暁斎を世界に広めた
そんな趣味のなかでも彼が一番ハマったもの。
それが日本画でした。
コンドルは工部大学校の教授を務めるかたわら、1881年に、日本画家・河鍋暁斎に弟子入り。
その芸術センスはすぐに暁斎の認めるところとなり、暁英という号を授かっているだけでなく、実際に作品を出品し、絵画共進会で受賞した経験もあります。
この経緯から、1911年には『Painting and Studies by Kawanabe Kyosai』を出版。
世界的に有名な日本画家といえば、葛飾北斎を思い浮かべる人が多いと思いますが、暁斎はコンドルが出版したこの書籍の影響で、海外では北斎並みのネームバリューを誇る日本画家となりました。
多趣味はすべて建築に活かすため
とにかく多趣味だし、突き詰め方がもはや趣味の域を優に超えている。
…と、その趣味がすべて芸術にまつわる文化だということに気が付いたでしょうか?
そう、コンドルは単に日本文化が好きだったのではなく、傾倒していった趣味は飽くまで建築に活かすためのもの。
西洋建築を日本になじませるため、日本の芸術を建築に反映していこうとしていたのです。
多岐に渡っているように見えて実は建築一筋。
ここまでこだわれるのって、やっぱりカッコイイですよね。
きょうのまとめ
ジョサイア・コンドルがもたらした西洋建築の技術は、近代的な街並みと安全な暮らしを私たちに与えてくれました。
彼が日本にやってきたのは弱冠24歳、建築家としてはまだまだ駆け出しの時代の話。
その若者がいかにして日本で大儀を成していったかは、すべて彼の底知れない探求心が答えとなっています。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① ジョサイア・コンドルは建築事務所の実務経験と、大学の体系的な知識を並行して身につけていった特殊な建築家。飽くなき探求心が下積み時代を支えた。
② 工部大学校教授として、文化財などを建築する名建築家を多数輩出。日本の近代化に貢献した。
③ 教授退任後は財閥御用達の建築家として活躍した。近代的なオフィス街を作った「丸の内総合改造計画」が有名。
④ 海外では日本研究家としても有名。日本画・華道・日本庭園に関して解説する書籍を出版している。
その気質は職人肌な日本人に近いものがあり、彼が来日したことにも運命的なものを感じさせられます。
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