明治政府が日本の近代化に向け、招いた技術者のひとり
ヨハネス・デ・レーケ。
治水大国であるオランダから、彼が日本へ伝えたものは、急流である日本の川と安定して付き合っていく手立てでした。
在日期間30年のあいだ、携わった事業は膨大。
その功績から「治水の恩人」という異名でも呼ばれています。
デレーケが用いたオランダ生まれの治水技術とは、いかなるものか?
デレーケはいったいどんな人物だったのか、その生涯を辿ってみましょう!
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ヨハネス・デ・レーケはどんな人?
- 出身地:オランダ・コレインスプラート
- 生年月日:1842年12月5日
- 死亡年月日:1913年1月20日(享年70歳)
- 日本の近代化に向け、明治政府がオランダから招いた土木技師。30年に渡り日本の河川改修、築港事業に携わり、治水事情を著しく向上させた。「砂防の父」「治水の恩人」などと称される。
ヨハネス・デ・レーケ 年表
西暦(年齢)
1842年(1歳) オランダ・コレインスプラートにて、築堤職人の家庭に生まれる。
1867年(25歳) オランニエ閘門の工事にて主任技師を務める。
1873年(31歳) 内務省土木局に招かれ、4等工師として来日する。
1875年(33歳) 淀川改修工事着工。日本初のオランダ式砂防ダムが築造される。
1878年(36歳) 1等工師エッシャーから福井県坂井港(現・三国港)の改修工事を引き継ぐ。長さ540mの巨大防波堤を築いた。
1886年(44歳) 1878年から調査を行っていた木曽川改修計画が完成。
1887年(45歳) 木曽川三川分流工事着工。木曽川、長良川、揖斐川のあいだに背割堤を設ける。
1891年(49歳) 富山県常願寺川改修工事着工。以降、通算9回270日に渡り現場を訪れ、計画立案、技師の指導を行う。内務省勅任官(天皇から任命を受けた技術顧問)となる。
1900年(58歳) 木曽川三川分流工事が完了。
1903年(61歳) オランダへ帰国。日本では三度の勲章を受けた。
1905年(63歳) 上海・黄浦江改修工事の技師長として、中国へ赴任。
1910年(68歳) 技師長を辞職し、オランダヘ帰国。オランダ国獅子勲章が授与される。
1913年(70歳) オランダ・アムステルダムにて没する。
家庭環境と優秀な師が育てた叩き上げの職人!
1842年、ヨハネス・デ・レーケはオランダ最南端の街、コレインスプラートにて、農家を兼業する築堤職人の三男として生まれます。
家業が堤防作りということで、幼少から治水事業に慣れ親しんでいったデレーケ。
そんな家庭環境も相まってか、年頃になると水理学者ヤコーブス・レブレットに師事することになります。
(※水理学…治水に関する力学)
レブレットはもともとオランダ内務省に務めたエリート技官でした。
デレーケはこの人物から土木工学のいろはを学ぶこととなります。
子どもの居なかったレブレットは、勉強熱心なデレーケを実の子のように可愛がり、あらゆる知識を伝授していったとのことです。
こうして実際の現場での経験や優れた師の教えを通し、デレーケは叩き上げの優秀な技師に成長。
その手腕は25歳にしてアムステルダムと北海を繋ぐ閘門工事の主任技師を任されるほどのものでした。
(※閘門…堤防などで区切られた場所を船が通れるようにする門)
デレーケの来日の理由とは?
1873年になると、明治政府は教育や医療、法律など、近代化が急がれるあらゆる分野のスペシャリストを海外から呼び寄せる一大事業を展開します。
江戸時代の鎖国による世界からの遅れを、急ピッチで取り戻そうとしていたわけですね。
この計画で招かれた外国人の数は実に約2,300人といわれ、いかに大きな改革が成されたかが伝わります。
お雇い外国人として来日
そのうち、治水のために呼び寄せられたのはオランダ人10名ほど。
このなかのひとりにデレーケが選ばれたわけです。
ほかの事業に関してはほとんどがイギリスからの招聘。
しかし治水に関してはオランダ人が優れており、これはそのための人選でした。
オランダは国土の約26%が海より低い場所にあり、堤防がなければほとんどが水に沈んでしまうような事情を抱えている国です。
そのため諸国に比べ、治水に関しては抜きんでた知恵をもっているんですよ。
4等工師として招かれたデレーケ
デレーケに来日の声がかかったのは、オランダから招かれた技師長が彼の上司だった縁でした。
そしてこのときデレーケと同じ船で日本にやってきた技師が、ジョージ・アーノルド・エッシャー。
ドルフト王立アカデミー出身のエリート技師です。
それぞれ、デレーケは4等工師、エッシャーは1等工師として、政府からは異なった待遇を受けることに。
実のところエッシャーはこれに不満を覚えており、後年、母親へ宛てた手紙のなかで
「デレーケは少なくとも僕と同じ額の報酬を受け取るべきです。彼のほうがずっと日本に貢献しているからです」
と、発言しています。
デレーケは高等教育を受けていないという理由で不遇の扱いを受けており、実際の手腕は報酬とはとても釣り合わないものだったということですね…。
仕事の鬼と呼ばれたデレーケ
ただ、それでも彼は日本において、「仕事の鬼」と呼ばれるほどの働きぶりを見せるのです。
在日中、1879年には妹のエルシエ、81年には妻のヨハンナが亡くなっていますが、それでもろくに休みもせず、与えられた責務を全うし続けたとのこと。
心労を癒したい気持ちはあったのでしょうが、やっぱり工事の進行度合いが気になる…という感じでしょうか。
あるいは、気を紛らわせるために一生懸命働いていたのかも?
釣り合わない報酬を気にもせず、よくぞそこまで心血を注いでくれたものです…。
(4等工師でも、デレーケの月収は当時の警察官の100倍近い額なのですが…お雇い外国人恐るべし!)
ただ、4等工師というのはあくまでも来日当初の待遇。
デレーケの日本での治水事業は大きく評価され、1891年には天皇から任命を受けた内務省の顧問技師である、勅任官として認められています。
在日中、勲二等瑞宝章を含み、授かった勲章は3回。
その努力はしっかり報われたわけですね!
日本での業績
在日中、デレーケが携わった治水事業はざっと20を超え、挙げ出せばキリがありません(ひとつの事業でも数年~数十年規模なのに…)。
そこでデレーケの業績について、ここでは特に著名なものにしぼって見ていきましょう。
淀川改修工事
デレーケの来日一発目の事業が、1875年の淀川改修工事です。
兼ねてから大阪港は、淀川から流れ出す土砂の影響で水深が浅くなり、大型船の入港が困難な状態に陥っていました。
デレーケはこの問題に対し、その原因は上流部の山にあると考え、視察に出向きます。
というのがデレーケの治水の神髄であり、これは当時の日本にはなかった発想でした。
そして上流部でデレーケが目にしたのは森林伐採により、土が剥き出しになったハゲ山。
通常、山というのは生い茂った木が根を張ることで土をその場に留め、雨が降っても土砂崩れが起きないようになっています。
つまり森林を失った淀川上流の土はストッパーをなくし、河口の大阪港まで垂れ流しの状態になっていたのです。
やはり自然界に人間の手が入ると、バランスが崩れてしまう部分があるのですね…。
そこでデレーケが行った施策は以下の3つ。
・川に砂防堰堤を作り、流れてきた土をせき止める
・川岸沿いに粗朶沈床という床材を敷き詰め、川の中心部に水を集中させて深くする
このとき作られた砂防堰堤というのは、土砂をせき止めることに特化したダムのこと。
オランダ式のものが日本に作られたのは、淀川の支流である不動川が初めてでした。
このほか、粗朶沈床という床材を川岸沿いに沈め、中心部の水深を深くする方法もオランダ由来の手法。
水を集めることで水流を強め、土砂を大阪港に留めることなく、海深くへ押し流すための施作です。
その範囲は大阪天満橋から京都観月橋まで、実に40キロに及ぶのだとか。
大阪港が今船で賑わっているのは、デレーケのこれらの施作のおかげなのです。
木曽川三川分流工事
続いては1877年に着工された、木曽川三川分流工事について。
木曽三川というのは、伊勢湾に流れ出す
・長良川
・揖斐川
の3つのこと。
これらはもともと、下流部分で網目のように複雑に入り乱れており、いずれかが氾濫を起こせば、ほかの2つにも影響が及んで大惨事…みたいな状態になっていました。
デレーケがこの木曽三川に施したのは、3つの川が入り乱れた場所に背割堤を設け、川を完全に分断してしまうというもの。
(※背割堤…川と川を分断する堤防)
この施作には
「背割堤なんて作ったら、船が通れなくなるじゃないか!」
という声もあったといいますが、デレーケはそれを閘門を作ることで解決。
こうして、以降木曽三川の洪水被害は見違えるほどに減ったといいます。
常願寺川改修工事
富山県の常願寺川は、兼ねてから激流で知られており、大雨のたびに洪水で人々を困らせてきました。
川の全長56キロのうち、38キロが山間部。
約3分の2は山を下っている川なわけですね…。
その流れの速さにデレーケが
「これは川ではない。滝だ」
と言った逸話もあります(2020年の研究で、別のオランダ人技師の発言だったことが発覚しているのですが…)。
2度の大災害
ただでさえ急流である常願寺川がさらに脅威の川と化してしまったのが、1858年のことです。
マグニチュード6.8の大地震によって常願寺川上流の大鳶山、小鳶山が崩壊。
常願寺川上流は、4億1千万立法メートルもの土砂を抱える状態となってしまいます。
当時、決壊した土石流で140人の死者、9,000人近い負傷者が出たとも…。
以降、常願寺川は急流で氾濫しやすいだけでなく、豪雨のたびに土砂災害の恐怖に人を悩ませてきたのです。
そして1891年のこと、常願寺川を豪雨が襲い、約6,500メートルもの堤防が決壊する災害が起こります。
土砂の流出面積は1,527ヘクタール。
計算してみると、東京ドーム325個分の広さにまで被害が及んでいることになるから恐ろしいですね…。
現代に受け継がれるデレーケの激流対策
この大災害を受け、富山県知事が土木技師を国へ要請したことにより、デレーケが派遣されました。
デレーケの立てた施策は…
・水の逃げ口を設けた霞堤を用いることで、氾濫時の水の勢いを弱める
・下流が大きく屈折した形状になっているため、新たに海へまっすぐ流れる川を掘る
というもの。
12箇所の取水口をひとつにまとめたのは、単純に数が多いと堤防がもろくなり、決壊しやすくなるためです。
もちろん利便性も考え、ひとつの取水口から水を取り出した後で、それぞれ分けて流す工夫もされています。
ふたつめの霞堤に関しては、水を一時的に川と別の場所へ逃がしておき、洪水が流れ切ったあとに溜めておいた水を川に戻して流すという仕組み。
これらのデレーケの案を土台に、現在も常願寺川の改修工事は、国の直轄事業として受け継がれています。
膨大な土砂は今でも2億立法メートルほど残っているとのこと。
しかしデレーケの施作の甲斐もあり、常願寺川は現在、安定した水流が保たれているのです。
黄浦江改修工事の技師長として上海へ
1903年のこと、デレーケは日本での任務を終え、オランダに帰国します。
ただ、働き者のデレーケのこと、休養していたのは1905年までで、そこから今度は上海の黄浦江改修工事の技師長として、5年間を中国で過ごすことになります。
しかし…実はこの中国での日々は、デレーケにとってあまりよい思い出にはなりませんでした。
いい加減な対応の現地業者や政府の事業費問題などで、劣悪な労働環境に大層悩まされたのだとか…。
そして皮肉なことに、この黄浦江改修工事が、デレーケにとって最後の大仕事となってしまうのです。
1910年に任務を終え、帰国したデレーケは、そこから3年後、1913年に没します。
享年70歳…思えば人生の半分近い時間を、日本の治水に捧げてくれていたのですね。
帰国の際、ウィルヘルミナ女王より「オランダ国獅子勲章」を授与されたことが最期の報いとなりました。
きょうのまとめ
明治の日本の近代化に向け、ずさんだった国内の治水事情を一新したヨハネス・デ・レーケ。
彼が日本へ持ち込んだ治水の知識と情熱は今も受け継がれ、水害から私たちを守ってくれています。
海に囲まれた島国ゆえ、流れも急流になりやすい日本の川。
しかもその数が非常に多い…。
だからこそデレーケもやりがいを感じて仕事に打ち込んでくれていたのかも?
最後に今回のまとめです。
① ヨハネス・デ・レーケは築堤職人の家庭に生まれ、エリート水理学者に育てられた叩き上げの職人。
② 日本に迎えられた当初の4等工師という待遇は不当だった?しかしそれでもデレーケは、周囲に「仕事の鬼」と呼ばれるぐらい、治水事業に心血を注いだ。
③ 30年の在日期間で、20以上の治水事業に従事。勲二等瑞宝章を含み、3回の勲章を授与されている。
もっとたくさんの人に偉人として知られていくといいですね!
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