カントとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

イマヌエル・カント

 

著作、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』からなる

批判哲学を提唱し、「近代哲学の祖」とも言われている、

イマヌエル・カント

彼が学界から注目を浴びるようになったのは、人生も後半に差し掛かった頃で、

それ故に遅咲きの哲学者として知られています。

カントとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は、その功績と生涯に迫ります。

 

カントはどんな人?

プロフィール
イマヌエル・カント

イマヌエル・カント

  • 出身地:ドイツ(現ロシア領カリーニングラード)
  • 生年月日:1724年4月22日
  • 死亡年月日:1804年2月12日(享年79歳)
  • ドイツの哲学者、思想家。ドイツ古典主義哲学の祖。近代哲学の祖。

 

カント 年表

年表

西暦(年齢)

1724年(0歳)東プロイセン王国の首都ケーニヒスベルクで、馬具職人の家庭の四男として誕生。

1740年(16歳)ケーニヒスベルク大学に入学。神学、哲学、自然科学、数学を学ぶ。

1746年(22歳)父親の死により学費が続かなくなり、大学を中退。以後、家庭教師などをして生計を立てる。

1755年(31歳)初の論文『天界の一般自然史と理論』を出版。ケーニヒスベルク大学の哲学部に学位論文を提出し、学位を取得。同大学の私講師となり、論理学、数学、物理学、形而上学、自然地理学などの科目を担当する。

1763年(39歳)『神の存在の唯一可能な証明根拠』を出版し、初めて学界から注目される。

1765年(41歳)王立図書館副館長に就任。

1770年(46歳)ケーニヒスベルク大学で論理学、哲学の正教授に就任。

1781年(57歳)「三批判書」のひとつ目、『純粋理性批判』を出版。

1786年(62歳)ケーニヒスベルク大学の総長に就任。

1788年(64歳)「三批判書」のふたつ目、『実践理性批判』を出版。

1790年(66歳)「三批判書」の最後、『判断力批判』を出版。

1796年(72歳)7月、論理学の講義を最後に教職を引退。

1804年(79歳)2月12日、老衰により死去。

 

遅咲きの哲学者カントの生涯

ここからは早速、カントの功績や生涯についてご紹介していきます。

「三批判書」の発表

カントの名が学界で知られるようになるのは、

彼が40歳を目前に控えた年でした。

それまでカントは家庭教師をしたり、

母校の大学で私講師として働きながら生計を立てていました。

彼が講義を行う科目は、

・論理学

・数学

・物理学

・形而上学

・自然地理学

など多岐にわたり、講師業の傍らで自身の研究を続ける生活を送っていました。

この年に発表した論文が注目を浴びると、彼の人生は徐々に好転していきます。

私講師、今で言うところの非常勤講師に過ぎなかったカントは、

2年後には王立図書館の副館長を務めることになり、

その5年後には母校ケーニヒスベルク大学で正教授に就任したのです。

こうしてようやく安定した職を手に入れたカントは、57歳を迎えた頃、

後に「三批判書」と言われる、3冊からなる批判哲学書の最初の一冊、

・『純粋理性批判』

を発表します。

そしてその後、10年の間に

・『実践理性批判』

・『判断力批判』

を発表し、世間に衝撃を与えることになりました。

カントの批判哲学

カントが後に「ドイツ古典主義哲学の祖」、

そして「近代哲学の祖」とも言われるようになるのは、

彼の提唱した思想が多方面にわたり影響を与えることになるからです。

彼の代表的な著作の「三批判書」は、

様々な問題に関してまずは普遍的な原理に立ち返って考え直す

ということが行われています。

「批判」と聞くと、対象のなかにある弱点を突いたり、

間違った箇所をあぶり出すようなイメージを浮かべたりします。

しかし、ここで言う「批判」とは「じっくり考え直す」ということ。

カントが行ったのは人間の理性や感性、そして認識というものが、

個々の経験と切り離した事柄について作用し得るのか検証することでした。

それにより、かつての哲学者たちによって行われてきた思想は根本から洗い直され、

それ以降の哲学はここから流れ出ているとまで言われるようになるのです。

カントがもたらした批判哲学は、様々な機関から批判の対象となり、

その後哲学界を混沌の渦へと巻き込んでいくことになりました。

理性とは

そんな哲学の世界に革新をもたらしたカントが、

物事の根本的な問いとして関心を持ったのは、理性について

さらに細かく見れば、「人間とは何か」ということでした。

そしてその問いは三つに分かれ、

・私は何を知ることが可能なのか → 『純粋理性批判』

・私は何を成すことが可能なのか → 『実践理性批判』

・私は何を望むことが可能なのか → 『判断力批判』

というように、それぞれの批判書の内容に対応しています。

そのなかでも最初に発表した『純粋理性批判』は、

哲学を真の学問として打ち立てるための準備作業のような位置づけにあります。

従来の哲学者たちの間で行われてきた形而上学けいじじょうがく的な問いとは、

「神は存在するのか」「宇宙に終わりはあるのか」という様な、

いわゆる、いくら考えてもはっきり断言できる答えが出ない事柄のことで、

人類が始まって以来、長年議論されてきたものでした。

しかし、カントはそれらに関して、

そもそも人間はこうした形而上学的な事柄について、

知ることが可能なのか、という根本的なところから問いを立てたのです。

カント
従来の哲学は、

「個人の経験とは全く離れ独立している事柄を、人間は知ることができるという前提」

について吟味していないことが、根本的な誤りである

と指摘しました。

そしてカントは結論として、

人間の理性で認識できることには限界があることを示しています。

コペルニクス的転回

「人間は経験から独立した物事をありのままに認識することはできない。」

と結論を出したカント。

カント
そして人間の認識は、個人の感覚器官を通して受け取る情報に関し、感性や知性という個々の処理能力による、理性の形式に制限されている

とも語っています。

つまり私たちは、物事をそれ自体として認識しているのではなく、

物事が私たちに現れた通りにしか認識できないのです。

これを認識論における「コペルニクス的転回」と言い、

カントはそれをこの批判哲学のなかにもたらしました。

 

ルーティーン大好き

ここでは、カントにまつわる有名なエピソードをひとつご紹介します。

東プロイセンにあるケーニヒスベルクという町に生まれ、

その生涯のほとんどをこの地から離れることなく過ごしたカント。

彼は変化を好まず、毎日同じスケジュールに沿った生活をこよなく愛しました。

毎朝同じ時間に起き、決まった時間に散歩に行き、決まった時間に仕事をし、

決まった時間に食事をし、毎晩決まった時間に寝る。

そのあまりに狂いなく正確な行動に、

一見するとその人物像は気難しい堅物を想像させます。

しかし実際の彼の性格はとても社交的で、食事の席には頻繁に多くの知人が訪れ、

彼が行う講義はユーモアあふれる内容で学生の人気が高かったと言われています。

 

きょうのまとめ

今回はドイツの哲学者、カントの生涯について、

その功績と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、カントとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 18世紀に活躍したドイツの哲学者、思想家。「ドイツ古典主義哲学の祖」、「近代哲学の祖」とも呼ばれる。

② 「三批判書」からなる批判哲学を提唱し、伝統的な哲学の曖昧さを明らかにしたうえで、哲学という学問の基礎部分を固めた。

③ 生涯生まれた土地を離れることはなく、母校ケーニヒスベルク大学で私講師、正教授と昇進していき、最終的に総長に就任した。

カントが唱えた批判哲学。

その集大成である「三批判書」は、

その難解さにより当時はなかなか人に正しく理解されませんでした。

しかし、この複雑で難解な哲学の基礎部分が改められたことにより、

カントの思想はその後様々な分野に通ずる普遍的な考えとなったのです。

 

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