小鳥のさえずりを聞き、
朝目覚め輝かしい朝日が差し込むステキな朝を迎えられた方、
想像してみてください。
ある日突然、病に侵され、目が見えず音も聞こえない漆黒の闇の朝を迎える人がいたことを。
その人の名は、ヘレン・ケラー。
そんな、悪夢のような人生を送ることになるも、彼女が語った言葉は、
「私は、自分の障害に感謝しています。
自分を見出し、生涯の仕事に出会えたのもこの障害のお陰だからです。」
でした。
一体、三重苦を背負いながら、生きがいある人生を送った、ヘレン・ケラー。
どんな人物だったのかを、簡単にご紹介します。
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ヘレン・ケラーとはどんな人?
- 出身地:アメリカ合衆国アラバマ州の北西部タスカンビア
- 生年月日:1880年6月27日
- 死亡年月日:1968年6月1日(享年87歳)
- 盲聾唖を乗り越え、世界の貧困や差別、病気や障害に苦しむ人々を救済し、障害教育や福祉の発展に尽力した人物。「光の天使」
ヘレン・ケラー 年表
西暦(年齢)
1861年(1歳)アメリカ合衆国アラバマ州にある小さな街タスカンビアの旧家に生まれる。
1880年(2歳)高熱に数日間侵され、視力と聴力を失う。
1887年(7歳)アレクサンダー・グラハム・ベル博士と出会う。
同年アン・サリヴァンが家庭教師となる。
1894年(14歳)ニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校へ入学し、発声法を中心に学ぶ。
1896年(16歳)ケンブリッジ女学校へ入学。
1900年(20歳)ラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学)に入学。
1904年(24歳)ラドクリフ・カレッジを卒業。文学士の称号を得る。
1906年(26歳)マサチューセッツ州盲人委員会委員に盲人代表として任命。
1909年(29歳)社会党に入党。
1918年(38歳)自叙伝「救済」がハリウッドで映画化され出演。
1936年(56歳)アン・サリヴァン死亡。
1961年(81歳)軽い脳卒中になり公的活動から身を引く。
1964年(84歳)アメリカ大統領自由勲章を授与される。
1968年(87歳)アーカン・リッジ荘で死去。
幼少期のヘレン・ケラー
ヘレン・ケラー誕生と障害
ヘレン・ケラーは、1880年6月27日に、
南北戦争当時、大尉だったアーサー・ケラーとケート・アダムスの子として裕福な家庭に生まれました。
障害を負うまでのヘレンは、
快活でいつもニコニコ明るい子で、
言葉の成長は早く6ヶ月には片言ですが言葉を話し、1歳の時には歩けるようになっていました。
1882年2月に生後19ヶ月に、原因不明の高熱と下痢が数日間続き、
一命はとりとめたものの、ヘレンの
視覚と聴覚は失われてしまいました。
後に幼少期に発した言葉で覚えていたのは、
「Water(水)」
のことを、「ウォー・ウォー」とのたった一言でした。
アン・サリヴァンとの出会い
当時、障害者は、教育を受けても仕方がないと、
障害者教育はない時代でした。
そんな中、7歳の時に両親の努力で、
一つの出会いがありました。
遠くボルチモアの眼科医の伝手で、聾唖者の母のために聾者の研究をし、
聾教育に尽力していたアレクサンダー・グラハム・ベル博士(電話を発明した人物)と出会いました。
ヘレンの気持ちを汲んでくれ、
彼女のジェスチャーも即理解してくれるベル博士のことが、ヘレンは大好きになりました。
ベル博士は、ヘレンには家庭教師が必要だと両親に進言し、
力になってくれるパーキンズ盲学校の校長マイケル・アナグノスを紹介してくれました。
直ぐに、父は校長に手紙を書きます。
校長は優秀な成績で卒業したばかりの、
21歳のアン・サリヴァン女史を家庭教師に推薦しました。
アンは、孤児で救貧院育ち。目もほとんど見えませんでした。
アン・サリヴァンとの格闘
アンと出会ったころのヘレンは、まるで獣のようだったといいます。
頭はぼさぼさ、自分が気に入らないことがあると癇癪を起こします。
食べ物は手掴みといった具合。
一度癇癪を起すと、
手足をばたつかせてわめき、人を叩きつねり、噛みついたり蹴とばしたりは、日常茶飯事でした。
授業は聾唖者に教える指文字で単語を綴ることからはじめます。
それをヘレンは授業ととらえず、遊びと思い楽しそうに単語を繰り返し綴ったようです。
手掴みで食べようとするヘレンの手を叩き、スプーンをもって食べることを教える、食事の場面でのヘレンとアンの格闘は有名ですね。
この時、アンは全く躾をされていないヘレンに従順になることと、
我慢することを教えたかったようです。
でも両親は、ヘレンには、
好きなものを好きなように食べさせてほしいとアンに願い出ます。
それでも、アンは食堂の鍵を閉め、二人っきりでヘレンに食事教育をしました。
その凄まじい教育態度に、アンとヘレンの両親の間には心の溝ができるほどだったようです。
そして、家の離れでアンとヘレンだけの生活がはじまりました。
奇跡の時
「ヘレンは好奇心が強い子」とアンが感じ始めます。
家庭教師33日目の1887年4月5日に、奇跡は起こりました。
この日も不機嫌で怒り心頭のヘレンに、アンは散歩へ誘いました。
井戸のポンプにヘレンの手をもっていき、水を出しました。
冷たい水がヘレンの手を流れた瞬間に、アンは素早くもう一方の手に、waterと素早く、そして何度も書いたのです。
先ほど少しお話しした、赤ちゃんの時に話した、「ウォー・ウォー」という言葉が、
ヘレンの頭の中で蘇り、物には名前があることを再発見した瞬間でした。
元々好奇心が強かったヘレンは、新しいものに触れるたびに、
「これは何?」と聞くようになったのです。
言葉を一つ知るごとに、確実にヘレンの世界は広がりました。
三重苦のヘレンの社会貢献
アンとヘレンが世界的に有名に
ヘレンが文章を話したのはアンの目が悪化し、治療のためボストンに滞在した時でした。
家庭教師のアンを紹介した、パーキンズ盲学院に、正規ではありませんが通いました。
その時、ホレース・マン聾学校のサラ・フラー校長と出会い、発声法の指導を受けその中で、
という文章を、しどろもどろですが初めて口にしたのです。
アンとヘレンの逸話を、パーキンズ盲学校の校長が学校の名誉だと、
さまざまな所で紹介し、世界的に有名になりました。
孤児の男の子を募金で盲学校へ
そんな時、アンに孤児院の神父が、盲聾で苦しむ5歳の男の子のことを相談しました。
そんな時ヘレンの犬が事故で死に、イギリスの篤志家などから、犬を寄付しようとの声が高まりました。
しかし、彼の話を聞いていたヘレンは、犬はいらないから、かわいそうな男の子に奨学金を送ってほしいと返事を出しました。
新聞社にもお金を求める手紙を書くなど彼女なりの努力により、
1600ドルもの募金を手にし、孤児の男の子を富裕層が通うパーキンズ盲学院へ入学できました。
障害者へ希望を与えるヘレン
父の借金と進学
ヘレンは、14歳でニューヨークにあるライト・ヒューマソン聾学校に入学し、
16歳の時にはケンブリッジ女学校へ入学。
学校に通う中でヘレンはさまざまな著名人と出会い、
将来への人間関係を築きました。
ケンブリッジ女学校へ入学前には、借金を抱えた父に進学を諦めて欲しいといわれます。
しかし、我が子のようにヘレンを可愛がってくれるベル博士と、
童話を書いていたヘレンに盗作疑惑が持ち上がった時に助けてくれたトウェーンの支援により、ケンブリッジ女学校に入学することができたのです。
残念ながら、ヘレンの学校生活に常に付き添っていたアンと、
ケンブリッジ女子高の校長がトラブルとなり、ヘレンは学校を退学しました。
ラドクリフ・カレッジへ見事合格
それでも、勉強を選んだヘレンは、
アンと共にラドクリフ・カレッジを目指したのです。
名門ハーバード大学の女子のための大学で、
ハーバード大学の卒業者と同等とみなされるほどの大学。
周りはもちろん無謀だと反対しましたが、
ヘレンは見事合格。
しかもアンの協力無く、
点字での試験をたった一人で受験したというから驚きです。
父を亡くしていたヘレンには、実家からの仕送りはなく、友人からの支援のみで学校に通ったのです。
執筆の才能があったヘレンは、お金を稼ぐため、
勉強で忙しいスケジュールの中で執筆活動もしながらきちんと卒業しました。
大学卒業後のヘレン
社会党へ入党
目も見えず耳も聞こえないヘレンは、
卒業後は障害者のために生きることを決めていました。
・「盲人教育」
・「盲人の生活の大変なこと」
など、雑誌社の依頼でさまざまな原稿を書き、収入を得たようです。
マサチューセッツ州が盲人教育委員会を設立することになり、
26歳のヘレンは盲人代表として、委員に任命されました。
しかし、障害のあるヘレンには、その仕事は荷が重く2年で辞任。
その後はアンの夫で二人の理解者であるジョンと共に、社会の底辺で苦しんでいる人のために働きたいと、社会党に参加しました。
若年労働や死刑制度反対の声を掲げ、デモ行進などにも加わりました。
たった一人ヘレンが愛した人
ヘレンが36歳の時、人生でたった一回だけ、結婚のチャンスがありました。
29歳のピーター・フェイガンは、物静かで誠実で、ヘレンにとっては信頼できる人でした。
ヘレンより7歳年下で、ヘレンの秘書だったピーターとの結婚には、ヘレンの母は猛反対。
駆け落ちまでしようとした二人でしたが、あえなく撃沈でした。
障害者の希望の星へ
その後のヘレンは、映画やヴォードヴィルショーへ出演しました。
映画は振るわなかったものの、ショーはアンがヘレンの教育について語り、
聴衆からの質問には、ヘレンが語るといったもので大盛況だったようです。
このころ、母ケートが亡くなります。
アメリカ盲人援護協会の広告塔
1921年にアメリカ盲人援護協会が設立されました。
ヴォードヴィルショーで人気沸騰中のヘレンを、募金活動の広告塔として起用。
「ヘレン・ケラーのために財布の口を開けましょう」
というスローガンではじまった募金集会には、
さまざまな著名人や知り合いが集まり、みんな気前よく募金に応じてくれました。
中には、自動車王のヘンリー・フォードや石油王のジョン・ロックフェラーも募金をしています。
3年間に250回以上の集会を開きました。
ヘレンはどこでも歓迎され、
100万ドルもの募金が集まったようです。
ヘレン日本への来日
ヘレンが56歳の時、70歳だったアンが亡くなりました。
ヘレンが来てくれたら障害者の環境が向上すると話題となっており、日本人の岩橋武夫は訪米の際に、ヘレンへ訪日を願う手紙を何度も出していました。
アンは生前、「日本に行ってあげなさい。」と語っていたようで、
死の悲しみを断ち切る意味もあり、訪日を決めたようです。
その時に観桜会に出席し、昭和天皇に拝謁。
滞在4か月の間に北海道から九州まで走り、
ヘレン・ケラーブームを巻き起こしました。
岩橋氏はヘレンの気持ちを察して、厳島神社に案内しました。
この時、アンへの追悼の火を石灯篭に灯し、それに感動したヘレンは涙したようです。
1937年には長崎と広島に、
1951年には東京で第一回アジア盲人福祉会議を開催と計3回来日しています。
ヘレンの死
ヘレンは1968年6月1日の87歳の時、自宅で逝去しました。
葬儀はワシントンにある、ナショナル・カテドラルで行われ、ボストンからパーキンズ盲学院の50名の聖歌隊が参列しています。
ヘレンの遺骨はこのカテドラルの下に眠っており、傍らにはアンの遺骨も埋葬されました。
日本からは、政府より勲一等瑞宝章が送られています。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
ヘレン・ケラーについていかがでしたでしょうか。
ヘレン・ケラーとは?
① 1歳7ヶ月の時に、病で視力と聴力を失う
② 獣のような生活を送るヘレンと家庭教師アンとの出会いと格闘の日々
③ 物に名前があることを知り、人生が一変する
④ 勉強熱心なヘレンは、女性版ハーバード大学へ入学する
⑤ 盲人のために社会に貢献する
⑥ 日本へも3度来日した
その他の記事についてもヘレン・ケラーにまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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