ハンムラビ王とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

古バビロニア王国の王となり、多数の強国が隣接していたメソポタミアを統一した

ハンムラビ王

彼がメソポタミアを統一したあかつきには、王として国の秩序や豊かさを向上させる政策を行い、さらに文明の発展を促していきました。

メソポタミアの高度な文明は、現代にも負けず劣らずの部分があることもわかっています。

その最盛期を担ったハンムラビ王は一体どんな人だったのでしょうか。

また彼はいかにして、強国揃いの激戦区になっていたメソポタミアを統一してみせたのか。

ハンムラビ王の生涯から、その人物像に迫っていきましょう!

 

ハンムラビ王はどんな人?

プロフィール
ハンムラビ王

出典:Wikipedia

  • 出身地:古バビロニア王国(現在のイラク・バグダード)
  • 生年月日:紀元前1810年
  • 死亡年月日:紀元前1750年(享年60歳)
  • 古バビロニア王国の第6代目国王。メソポタミア一帯を統一し、文明を最盛期へと導いた

 

ハンムラビ王 年表

年表

西暦(年齢)

前1810年(1歳)第5代目国王シン・ムバリトの息子として、古バビロニア王国にて誕生する。

前1792年(18歳)古バビロニア王国の第6代目国王に即位する。

前1784年(26歳)イシン、ラルサの二大国を支配していたリム・シン1世からイシンを奪い、主要都市だったマルグム、ユーフラテス川流域のラピクムを占拠する。

前1764年(46歳)古バビロニア王国にリム・シン1世の領土だったラルサを合併。南方へと領土を広げていく。

前1759年(51歳)イシン、ラルサを抑えた後、残る強国だったマリを制圧。

前1757年(53歳)メソポタミア全域を統一する。同時にこの地域一帯がバビロニアと呼ばれるように。

前1757~1750年(53~60歳)ハンムラビ法典によって中央集権国家を築く、大規模な治水工事を行うなど、死の直前まで文明を最盛期へと導く。

 

ハンムラビ王のメソポタミア統一

古アッシリア王国の支配下にあった古バビロニア王国

紀元前1792年、ハンムラビ王が古バビロニア王国の王に即位した当時、バビロニアは古アッシリア王国の支配下にあり、それほど力の強い国家ではありませんでした。

古アッシリア王国はバビロニアの他、大国のマリ王国も配下に置いており、メソポタミア北部で随一の権力を誇っていたのです。

大国の支配下にある弱小国家から、どのようにしてバビロニアが独立していったのか。

それは古アッシリア王国の国王シャムシ・アダド1世の死に伴うものでした。

多くの国を支配下に収めていたのは、シャムシ・アダド1世の手腕があってこそのものだったのでしょう。

彼が亡くなると支配下にあった国は次々に独立の意志を示し始め、シャムシ・アダド1世の後継者であるイシュメ・ダガン1世ではどうにも抑えきれない状況に。

そんな情勢に合わせて、マリ王国前王の息子だったジムリ・リムが国王に即位。

彼によってマリが完全に独立した結果、古アッシリア王国は領土を失い、崩壊してしまいます。

これによりハンムラビ王率いるバビロニアも晴れて自由の身となるのです。

同盟国マリ王国

共に古アッシリア王国の支配から脱却したマリとバビロニアの関係は非常に良好でした。

古アッシリア王国の崩壊に伴い、そのとき権力を持っていたラルサ、マリに次ぐ大国だったエシュヌンナ王国が、ユーフラテス川中流域に侵攻を試みますが、これを受けたハンムラビ王はマリと同盟を結び対抗したのです。

独立したばかりの両国でしたが、協力することで強国エシュヌンナを退けるのです。

その後イラン高原にあったエラム王国がエシュヌンナの侵攻を呼びかけ、バビロニアとマリがこれに参加。

エシュヌンナは滅亡しますが、このとき奪った領土を巡ってエラム王国からバビロニアが宣戦布告を受けてしまいます。

このときもハンムラビ王はマリに助けを求め、エラム王国との戦いに勝利しました。

事あるごとにバビロニアを助けたマリ王国のジムリ・リム王は、ハンムラビ王の盟友といっても良いでしょう。

敵対国ラルサ王国

北方を占領していたのは古アッシリア王国でしたが、南方を治めていたのはラルサ王国のリム・シン1世です。

古アッシリア王国が崩壊して以来、リム・シン1世は古バビロニア王国に対して明らかな敵対心を見せていました。

実はエラム王国が侵攻してきたとき、マリと同じく大国だったラルサにも、ハンムラビ王は助けを求めています。

しかしそのときラルサはエラム王国に対抗こそしても、バビロニアの救済ではなく、同時に攻められようとしていたマリを救う形で協力したのです。

そればかりではなく、ラルサ王国はバビロニア領内での略奪行為を繰り返していました。

ここまで敵対心を剥き出しにされては、ハンムラビ王としても侵攻を考えないわけにはいきません。

その後バビロニアの侵攻にあったラルサは動揺し、国内での反乱も相次いだといいます。

これを踏まえると、国内の政治もあまり上手くはいっていなかったのでしょう。

前1764年には、ハンムラビ王は完全にラルサを制圧します。

攻められる前に攻める…攻撃は最大の防御と考えたのかもしれませんね。

マリ王国を侵攻した理由は謎のまま…

ハンムラビ王はラルサに次いで、前1762年よりマリの侵攻にも着手。

前1759年にメソポタミアを統一します。

ここで不思議なことがひとつあります。

マリとバビロニアの関係は良好だったのに、何故急に侵攻することになってしまったのか。

実はマリの国王ジムリ・リムの記録も1762年を境に残されておらず、彼がその後どうなったかは明らかになっていません。

盟友だったジムリ・リムの身に何かが起こったことが、ハンムラビ王がマリを侵攻するきっかけになったのか…それとも、単にハンムラビ王が裏切っただけなのか。

その真意は未だに謎のままとされています。

 

ハンムラビ法典は法律というよりも、模範を示す手引書だった

ハンムラビ王といえば「目には目を、歯には歯を」の名言が現代にも受け継がれている、ハンムラビ法典が思い浮かびます。

法典とはいうものの、これは実際のところ法律というよりも、犯罪などの問題が生じた際にどういった対処をするか、模範を示した手引書のようなものでした。

よって「絶対にこうしなければいけない」という、法的な拘束力のあるものではなかったのです。

ハンムラビ王は強制するわけではなく、模範を示す形で国民を導いたということですね。

立場の弱い者に配慮されたその内容は、現代でも参考になる部分が多々あります。

 

きょうのまとめ

古アッシリア王国支配下の弱小国家という立ち位置から、同盟という形で強国の力を借り、徐々に領土を拡大していったハンムラビ王。

状況に対する判断力、良好な同盟を築く外交力が、彼をメソポタミア統一に導いたといえるでしょう。

そしてハンムラビ法典の内容から察するに、ハンムラビ王は能力だけでなく、人格的にも非常に優れた人物だったはずです。

今回の内容を簡単にまとめると…

① ハンムラビ王はマリ王国と協力することで、数々の危機を乗り越えた

② ラルサ王国は古バビロニア王国に敵対心剥き出し…先手を打ってハンムラビ王が侵攻した

③ ハンムラビ法典は法律にように強制されるものではなく、人々を導く模範だった

といったところでしょうか。

メソポタミア統一を巡っては、バビロニアとマリは親密、ラルサとは敵対…という風に、外交関係もわかりやすいですね。

弱小国家の王が、知略を巡らせて成り上がっていくというサクセスストーリーには、やはり心躍らされます。

 

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