13世紀~14世紀にかけて、イタリアにて活動した政治家・詩人の
ダンテ・アリギエーリ。
彼は後に続く14~16世紀に全盛期を迎えた、ヨーロッパのルネサンス文化の先駆者となり、芸術の発展に大きく貢献した人物です。
ダンテが残した「神曲」「新生」などの文学作品は、現在でも文学界で高い評価を受けています。
彼の人生は一言でいって波乱万丈。
後世に影響を与えることとなった作品群は、いずれもその人生をもってして生まれたものです。
作中には生涯に渡って恋焦がれたベアトリーチェのことや、自分を迫害したフィレンツェの政界への批判など、ダンテ自身の経験がわかりやすく反映されています。
今回はそんな彼の人生や、残された作品をとおして、その人物像に迫っていくこととしましょう。
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ダンテ・アリギエーリはどんな人?
- 出身地:イタリア・フィレンツェ
- 生年月日:1265年
- 死亡年月日:1321年9月14日(享年56歳)
- 13世紀イタリアの政治家・詩人。ルネサンス文化の先駆者となり、ヨーロッパの芸術の一時代を築いた。
ダンテ・アリギエーリ 年表
西暦(年齢)
1265年(1歳) イタリア・フィレンツェにて金融業を営んでいた父アリギエーリ・ディ・ベッリンチョーネと、母ベッラの息子として生まれる。
1274年(9歳) 春祭りカレンディマッジョにて、ベアトリーチェ・ポルティナーリと出会い、魂を奪われるような恋に落ちる。
1283年(18歳) 聖トリニタ橋のたもとでベアトリーチェと再会。ダンテの恋心は燃え上がるが、カモフラージュのために他の女性へ詩を贈ったことが原因で失恋する。
1283年頃~(18歳頃~) 政治家ブルネット・ラティーニから修辞学・論理学を学ぶ。その後ボローニャ大学へ入学。哲学や法学、天文学を研究した。
1285年(20歳) いいなずけのジェンマ・ドナーティと結婚。
1290年(25歳) ベアトリーチェが24歳の若さで病死。悲劇に打ちのめされたダンテは生涯に渡って彼女を詩の中で賛美していくことを誓い「新生」を著す。
1300年(35歳) 政治家として活躍していたダンテは、フィレンツェの新興勢力・白党の最高行政機関の統領三人のうちの一人に選ばれる。
1301年(36歳) フィレンツェの実権を保守派の黒党が握る。反対勢力の白党は弾圧され、ダンテはフィレンツェを永久追放される。
1301年~(36歳~) 北イタリアの各地を放浪し、政治改革に奔走する。このころから執筆活動も本格的になっていく。
1304年(42歳) 代表作・神曲の執筆を開始する。
1318年(53歳) ラヴェンナの領主から迎え入れられ、約17年間に及んだ放浪の生活に終止符を打つ。家族を呼び寄せて暮らし、神曲の執筆に専念する。
1321年(56歳) 神曲が完成。後に外交使節としてヴェネツィアへ派遣されるが、旅路の途中、マラリアに侵され、9月13日~14日の夜中にその生涯を終える。
ベアトリーチェへの死「新生」
ダンテの人生を辿るには、作品の成り立ちを追っていくのがわかりやすいです。
まずは神曲に次ぐ代表作の「新生」。
ベアトリーチェへの愛を綴った「新生」
この作品は1290年、彼が生涯愛したベアトリーチェの死をきっかけに、執筆にいたったものです。
ダンテはベアトリーチェの生前、気付かれない形を取りながらも、多くの詩を彼女に宛てて作っていました。
しかしカモフラージュにと、他の女性宛ての詩だと偽ったことが仇となり、ベアトリーチェはダンテと距離を置くようになるのです。
新生はそんな彼女に届けられなかった詩と、彼女が亡くなったしらせを受けたときに、ダンテが悲しみのなかで書き上げた詩をまとめた詩集。
要するに壮大なラブレターということになりますね。
古典を読みふけったことが新生の執筆を思いいたらせた?
ベアトリーチェが亡くなったのをきっかけに執筆されたといっても、新生が完成したのはそれから3年後の1293年ごろのことでした。
それまでダンテが何をしていたのかというと、その悲しみを癒すため、キケロやボエティウスなど、古代ローマの哲学者が残した古典を読みふけったといいます。
どん底に突き落とされたとき、偉人の言葉に救いを求めたくなる気持ちは、現代に生きる私たちでも変わりませんね。
そうやって多くの文学に触れた結果、代表作の新生を作るにいたったわけですから、この一連の出来事が、ダンテの詩人としての礎となったといって良いでしょう。
ベアトリーチェが亡くなっていなかったら、彼は詩人ではなかったかもしれません。
ダンテ・アリギエーリ最大の長大作「神曲」
「神曲」はダンテが1304年から、晩年の1321年にかけて執筆にあたり、完成させた自身最大の長大作。
彼の作品のなかでもっとも有名な作品でしょう。
放浪の身を強いられた人生を表した「神曲」
1301年以降のダンテは政争に敗れた結果、故郷のフィレンツェを追放され、約17年間にも及び、放浪の身を強いられました。
その間に描かれたものとあって、神曲の内容も自身の苦悩をそのまま書き記したような物語となっているのです。
作中の主人公はダンテ自身で、彼は敬愛する詩人であるウェルギリウスの導きにより「地獄界」「煉獄界」を旅し、最後はベアトリーチェの導きで「天国界」へと辿り着きます。
地獄と煉獄が放浪の日々を表したものだとすれば、天国はラヴェンナに迎え入れられた後の家族との平穏な日々を表したものでしょうか。
ウェルギリウスやベアトリーチェを始め、フィレンツェで自身を迫害した者たちも登場するなど、フィクションのなかに実在の人物を多く登場させていることも、この作品の特徴だとされています。
物語の内容だけではない、作品の美しい構成
神曲が文学界で高い評価を得ているのは、単に物語が面白いからではありません。
多岐に渡る評価の要因からあげるとすれば、「3」を基調とした美しい文章構成が、長大作にもかかわらず一貫されている点でしょう。
前述のように神曲は「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の三部構成。
そしてそれぞれの篇は34歌、33歌、33歌からなります。
地獄篇のみ34歌になっていますが、1つ多くなっている部分は物語の概要を説明したものです。
つまり本編だけを取れば、すべて33歌で構成されていることになります。
ここまでなら、その他の詩人であっても作ることはできるかもしれませんが、神曲の徹底ぶりはこんなものではありません。
それぞれの歌を構成する文章そのものも、すべて3行ひとまとまりで進行されていくのです。
キリスト教で神聖だとされる3の数字にとことんこだわった構成に、物語としての完成度も高いとなれば、世紀の大作とされていることにも納得がいきます。
ちなみに地獄篇と煉獄篇は1319年時点で世に出回っており、イタリア・トスカーナ地方ではすでに高い評価を受けていたとのこと。
世界的に評価されるのは後の話ですが、当時からダンテの地元ではベストセラーだったのですね。
きょうのまとめ
ダンテは詩人として名をはせる以前は、政治家として党の代表に選ばれるほどの力をもっていました。
結果的に政治家としては大成できなかった彼ですが、その逆境をはね返し、詩人として成功してみせたことは見事といえます。
やはり一分野で頭角を表せる人物は、他分野に置かれても同じように活躍できるということでしょうか。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきます。
① ダンテの人生は波乱万丈。「神曲」「新生」などの作品群にその生き様が垣間見える
② 新生は若き日のダンテの恋心を綴ったもの
③ 神曲にはフィレンツェを追放された苦悩の日々、ラヴェンナで辿り着いた安息の日々が反映されている
「ピンチはチャンス」などという言葉がよく使われますが、悲劇に満ちた人生から大作を生み出したダンテをみていると、これほど説得力のある言葉はありませんね。
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