14~19世紀を境に、その時代ごとにデスマスクの残っている偉人がいます。
デスマスクとは、死者の顔を石膏などでかたどったもので、多くはその人の死を追悼する意味で作られました。
特に当時のヨーロッパではデスマスクを残す風習が根強く、残されている偉人も他の地域と比べて群を抜く数です。
13世紀のイタリアにて、政治家・詩人として活躍した
ダンテ・アリギエーリもそのうちのひとり。
ダンテはその影響力から死に際しても逸話を残しています。
今回は彼のデスマスクをとおして、その死に様や、どれほど影響力の強い人物だったかをみていきましょう。
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ダンテのデスマスク
フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿に飾られるダンテのデスマスク
ダンテのデスマスクが飾られているのは、イタリア・フィレンツェにある世界遺産・ヴェッキオ宮殿です。
ヴェッキオ宮殿は1314年に石工のアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、現在でも市庁舎として使われています。
ちなみに彼はフィレンツェのシンボルにもなっているサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建築にも携わるなど、名立たる建造物を手掛けた巨匠です。
映画「ハンニバル」「インフェルノ」などの舞台にも使われるほどの、ヴェッキオ宮殿の荘厳な佇まいは一見の価値ありですよ!
ダンテのデスマスクはそんな宮殿内の「500人大広間」と呼ばれる部屋の上階に飾られています。
彼の死因はマラリアとなっていますが、高熱にうなされたにしては、デスマスクは苦しんでいるようには見えない表情。
17年もの間、身を寄せる場所もなく、放浪し続けたダンテにとっては、安住の地で息を引き取れること自体が幸せだった…とも取れます。
あるいは「本当はデスマスクではない」などという説もありますが…真意は定かではありません。
<ヴェッキオ宮殿>
フィレンツェが遺骨の返還を要求…ラヴェンナは応じず
フィレンツェで政治家として活動していたダンテは、1301年に覇権を握った黒党と対立した結果、フィレンツェを追放されてしまいました。
彼の生まれ故郷に対する思い入れは強く、代表作・神曲のなかでも何度となく、追放されたことの恨みをあらわにしています。
そんなダンテが亡くなったのは、イタリア・ラヴェンナ。
彼のお墓もこの地に作られました。
しかし生まれ故郷であるフィレンツェは、ラヴェンナに対して、ダンテの遺骨を返還するように兼ねてから要求していたのです。
一度は追放したものの、名声を得れば遺骨の返還を要求する…なんだか複雑なものがありますが、当時とは政権も変わっていますから、単に生まれ故郷で弔ってあげたいということなのでしょうか。
これを経て1519年には、法王レオ10世が遺骨返還の許可を出しますが、ラヴェンナ側としては、「渡してたまるものか」といったところ。
フィレンツェからの使者が遺骨を引き取りにやってきたころには、持ち帰れないよう、棺から遺骨が抜き出されていたのだとか。
口頭で拒否すれば済む話のような気もしますが…法王が許したとあっては、隠すぐらいのことをしないと持ち去られてしまうと踏んだのでしょうか。
ダンテ自身はフィレンツェに帰りたいと願っていたわけです。
フィレンツェにデスマスクが飾られているのは、遺骨が返してもらえないゆえ、せめてもの追悼の意味が込められているように感じますね。
デスマスクが残される意味は?
デスマスクがヨーロッパの一般的な風習として広まったのは、17世紀頃の話。
当初は死者の追悼を意味し、告別式で飾られたり、後に肖像画を残すために作られたりしていました。
しかし時代を追うごとに、事件で身元不明の遺体の調査にも使われるようになります。
当時は写真がなかったため、直接顔の型を取ったデスマスクが調査の材料として有効だったのです。
しかしダンテが亡くなったのは、1321年で、デスマスクが文化として根付く300年ほど前の話。
そのころにデスマスクが残されるのは限られた偉人だけだということは、彼の功績がいかに大きかったかを物語る事実です。
また何年も経ってからデスマスクを作るというのは考えにくく、ダンテの死後、作品がすぐに世間から評価されたということもわかります。
きょうのまとめ
ダンテのデスマスクはヴェッキオ宮殿の見どころとして有名です。
その他にも遺骨の引き渡しの問題など、彼は死に際してイタリアに大きな影響を与えたことがわかりました。
ダンテはルネサンス文化の先駆者として、ヨーロッパの一時代を築いた人物。
フィレンツェもラヴェンナもそれぞれ、彼のゆかりの地を名乗りたい想いがあるのは当然のことでしょう。
最後に今回の内容を簡単にまとめておくと…
① ダンテのデスマスクが飾られているのは、世界遺産のヴェッキオ宮殿
② ダンテの墓はイタリア・ラヴェンナにある。フィレンツェが返還を求めたが、ラヴェンナはかたくなに拒否した
③ ダンテのデスマスクが作られたのは、デスマスクが一般的になる300年前の話
フィレンツェに帰りたい気持ちはあっても、長きに渡る放浪の身から解き放ってくれたラヴェンナの地もまた、ダンテにとってきっと特別な場所だったのではないでしょうか。
それぞれの街で彼が弔われることで、悲劇の人生を送ったダンテも、少しは浮かばれるように感じます。
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