ココ・シャネルとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

シンプル&エレガンス、そしてその圧倒的センスを武器に

20世紀のファッション業界に革命を起こした人物、

ココ・シャネル。

「リトル・ブラック・ドレス」や「パンツスタイル」など、

現在では当たり前になっている女性ファッションの原点とも言える、

数々の基軸を世に生み出しました。

その活躍は衣類だけに留まらず、コスチュームジュエリーや香水など、

女性が身にまとうあらゆる物に新たな風を吹かせました。

「シャネル」の創業者として不動の地位を築いたココ・シャネルとは、

一体どんな人物だったのでしょうか。

今回はその生涯に迫ります。

 

ココ・シャネルはどんな人?

プロフィール
ココ・シャネル

出典:Wikipedia

  • 出身地:フランス オーベルニュー地方
  • 生年月日:1883年
  • 死亡年月日:1971年1月10日(享年87歳)
  • 高級ファッションブランド「シャネル」の創業者。20世紀に活躍したフランスのファッションデザイナー

 

ココ・シャネル 年表

年表

西暦(年齢)

1883年(0歳)フランスのソミュールで誕生。幼少期に母が死去し、姉と共に孤児院や寄宿学校を転々とする。

1900年(17歳)お針子の仕事に就くも歌手を目指し、カフェ「ラ・トロント」で活動する。この時から「ココ」の愛称で呼ばれるようになる。

1908年(25歳)歌手の道を断念した後にエチエンヌ・バルサンの支援のもと、パリのアパルトマンで帽子のアトリエを開く。

1910年(27歳)アーサー・カペルの出資でパリに帽子店「シャネル・モード」を開く。

1921年(38歳)後にベストセラーとなる香水「No.5」を発表。

1922年(39歳)ミシア・セールのサロンを通じて、ジャン・コクトーやパブロ・ピカソらと交流する。

1925年(42歳)パリ万国博覧会に出品。

1931年(48歳)ハリウッドで映画衣装を担当する。翌年、ポール・イリブの勧めで宝飾店を開く。

1934年(51歳)ホテル・リッツに転居する。

1939年(56歳)第二次世界大戦の勃発に伴いアクセサリーと香水部門以外の店を閉め、3000人の従業員を解雇する。

1953年(70歳)戦後、約15年間スイスに亡命した後にパリに戻る。以降、ヨーロッパよりも女性の活躍が進んでいたアメリカで評価されるようになる。

1971年(87歳)1月10日、自宅にしていたホテル・リッツで死去。

 

ココ・シャネルの生涯

「シャネル」の始まり、2人の男性

高級ファッションブランドブランド「シャネル」の始まりは、

ココ・シャネルが25歳の頃にパリで開いた帽子のアトリエからでした。

退屈しのぎに制作していた帽子のデザインが周囲の人々に高く評価され、

当時交際していた資産家で将校のエチエンヌ・バルサンの後押しのもと、

彼女はファッションデザイナーとして最初の一歩を歩み始めたのです。

そしてその数年後、ココ・シャネルは生涯の恋人となる

資産家のアーサー・カペルと出会います。

そして彼の出資のもと、パリに最初の帽子店をオープンさせました。

この2人の上流階級の男性は、ココ・シャネルが「シャネル」を創業するためには

必要不可欠な存在だったのです。

帽子からスタートした彼女はその後、次々と斬新なアイテムを生み出し、

20世紀のファッション業界に革命を起こす不動の女王となるのです。

デザインの革命

ココ・シャネルが生み出すアイテムが注目を集めた理由のひとつは、

まずそのデザインの斬新さが挙げられます。

最初に製作を始めた帽子は、当時の女性がかぶっていた羽根つきの大きく華やかなものから、

コンパクトでシンプルそれでいて上品なデザインに。

自らデザイン製作した帽子を自らかぶり、上流階級の人々が集うサロンに出入りしていたことで、

ファッションに敏感なパリの女性たちから支持されるようになったのです。

また、1914年に第一次大戦が始まると女性たちが男性に代わって工場で働くようになりました。

その作業着として男性のズボンを着用する女性が増えると、

それを見て自身もパンツスタイルを好んでいたココ・シャネルは、

女性たち向けにおしゃれなデザインのズボンを製作し、多くの支持を得るようになりました。

さらにデザインの革命は色合いにも反映されます。

その代表格と言えるのがブラックドレスでした。

黒というのは当時、喪に服するときに身に着ける色として、

ヨーロッパで広く知れ渡った伝統的な色でした。

しかしココ・シャネルはその色をあえて普段のファッションにも取り入れることにしたのです。

なかでも、膝丈からふくらはぎ辺りまでの丈の「リトル・ブラック・ドレス」は、

「シャネル」の代表的なスタイルとなりました。

素材の革命

ココ・シャネルは当時、衣服の素材の側面からも革命を起こしました。

「ジャージー素材」はその代表で、当時は男性用の下着の素材として用いられていましたが、

彼女はそれを初めてファッションに取り入れたのです。

当時の上流階級の人々にとって、衣服の素材といえばシルクやサテンなどの高級素材が主流でした。

そのため、ココ・シャネルが自身の店にジャージー素材で作られた衣服を多く並べると、

最初は驚きと戸惑いですぐには受け入れられませんでした。

しかし、やはり第一次世界大戦の影響で高級素材が手に入りにくくなるなか、

安価で大量に手に入りおまけに着心地も良いジャージー素材でできた服は、

次第に絶大な支持を得るようになったのです。

また素材による革命はジュエリーの部門にも取り入れられました。

ココ・シャネルは、本物のジュエリーとフェイクを組み合わせたスタイルを発表し、

それを本格化しました。

「シャネル」のシンプルで上品な服に、手頃な価格のジュエリーを贅沢に使った姿は、

たちまち代表的なスタイルとなりました。

 

“ココ”はあだ名?!

最後にひとつ、ココ・シャネルの名前にまつわるエピソードをご紹介して、

今回のまとめに入りたいと思います。

皆さんは、ココ・シャネルの“ココ”というのが

本名ではないことをご存知でしたか?

実は彼女、本名はガブリエル・ボヌール・シャネルといいます。

では、“ココ”というのは一体どこから来たのかというと、

それは彼女が帽子のアトリエを開く前までさかのぼります。

幼少期に母を亡くし、姉と2人で孤児院や寄宿学校で生活をしていた少女、ガブリエル。

寄宿学校を卒業後、彼女は憧れていた歌手を志し、

キャバレーのようなカフェで歌を披露しては、

デビューを目指してオーディションを受ける日々を送っていました。

“ココ”というのはこのカフェでの歌手活動の際に呼ばれていた愛称でした。

ちなみに歌手としての才能には恵まれませんでしたが、

寄宿学校時に身に着けていた裁縫の能力を生かし、

お針子の仕事をする傍らで歌手を目指していた彼女は、

そのカフェで最初のパトロンのバルサンと出会うことになるのです。

 

きょうのまとめ

今回は、ファッションブランド「シャネル」の創業者、

ココ・シャネルの生涯をご紹介しました。

ココ・シャネルとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると

① 20世紀のフランス人ファッションデザイナーで、高級ファッションブランド「シャネル」の創業者

② 衣服、ジュエリー、香水、バックなどの女性が身に着けるあらゆる物に現代的な革新をもたらし、特に女性の自由な活動を求める動きが高まっていたアメリカで広く受け入れられた

③ 恋多き人物で、デザイナーとしての才能に加えてあらゆる人脈を駆使し、「シャネル」の看板と自身の地位を不動のものにしていった。その過程には第二次世界大戦時にナチスのスパイ活動をしていた時期があり、戦後はスイスに亡命していた時期があった

当サイトには、他にもココ・シャネルにまつわる記事があります。

合わせてご覧いただくことで、彼女のカリスマ性とその美学の背景にある歴史を

より感じられると思います。

お時間の許すときにでも、ぜひのぞいてみて下さい。

 

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