18世紀に活躍したアイルランド出身の哲学者、
ジョージ・バークリー。
ジョン・ロック、デヴィッド・ヒュームらと並び英国経験論の代表的な哲学者とされる彼は、その一方で本職は敬虔な聖職者でした。
その代表的な思想を説明する際に、「存在するとは知覚されること」という名言を用いられることで有名ですが、
一体、ジョージ・バークリーとはどのような人物だったのでしょうか。
今回は、彼の生涯をその功績を中心にご紹介していきます。
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ジョージ・バークリーはどんな人?
- 出身地:アイルランド キルケニー
- 生年月日:1685年3月12日
- 死亡年月日:1753年1月14日(享年67歳)
- アイルランドの聖職者、哲学者。英国三大経験論者の一人。主著『人知原理論』
ジョージ・バークリー 年表
西暦(年齢)
1685年(0歳)アイルランドのキルケニーで、軍人の父親のもとに誕生。
1696年(11歳)キルケニー大学に入学。
1700年(15歳)ダブリンのトリニティ・カレッジに入学。
1707年(22歳)同カレッジで修士号取得。特別研究員に選出される。
1709年(24歳)『視覚新論』を刊行。
1710年(25歳)『人知原理論』を刊行。
1713年(28歳)ロンドンにて『ハイラスとフィロナスの対話』を刊行。
1721年(36歳)トリニティ・カレッジで神学博士号を取得。
1728年(43歳)結婚後、アメリカのロードアイランド、ミドルタウンに移住。
1732年(47歳)神学校設立を断念し、ロンドンに帰国。
1734年(49歳)アイルランド国教会の主教に叙任される。
1752年(66歳)オックスフォードで隠居生活に入る。
1753年(67歳)妻が聖書の朗読をしている際に、それを聞きながら突然息を引きとる。
ジョージ・バークリーの生涯
ここからは早速、ジョージ・バークリーの生涯について、主にその功績の面からご紹介していきます。
聖職者としての哲学
英国経験論の三大哲学者を代表する一人である、ジョージ・バークリー。
その思想を見ていく上でまず最初に押さえておきたいのは、彼が敬虔なクリスチャンであったということ。
そのため、思想の根底には常にキリスト教の教えを守り、神の存在を肯定するための思考があるということです。
これにより、ジョージ・バークリーの経験論には偏りが生じるのです。
ヨーロッパ中で啓蒙思想の運動が活発になった18世紀。
それは、人々が世界や人間について改めてその定義を模索する時代でした。
神が中心だった世界の在り方から、人間の主体性や個々の共存を目指した世界への大規模な変革期。
そんな時代の初期に聖職者として生きたジョージ・バークリーは、必然的にキリスト教を守るための思想が必要だと考えたのです。
そのため、彼の哲学の目的は懐疑論や無神論を否定することになります。
そしてそれを実現させるために、彼は物体の実在性を否定することでそれを実行しました。
「存在するとは知覚されるということ」
懐疑論が生じるのはそもそも物体の存在を前提としているからだ、とジョージ・バークリーは考えます。
例えばある物体に対して、我々の持つ観念はその物体と一致しているのかという問題が生じた場合。
それを証明することは不可能だから、結局は懐疑論に行き着いてしまう。
だから物体自体の実存を否定してしまえば、この問題も生じないし、それはつまり懐疑論の否定にもなるのではないか、と考えたのです。
記事の冒頭でもご紹介しましたが、彼の有名な名言に、
というものがあります。
これは、
“我々が普段認識するのは物体の観念のみであって、物体そのものを認識することはない”
という根拠に基づく、裏付けの様な名言です。
つまり、物体そのものは存在しておらず、我々の認識によってのみそこに存在しているかの様になる、というわけです。
確実に実在するのは自分の心だけで、その他外界のあらゆる物は不確実であり、自分の認識によってはじめて存在することになる。
この思想は「独我論」とも言われています。
これを端的に言ってしまえば、“誰にも知覚されないものは存在しないも同然”ということなのです。
神の存在
ここまでを見てきて、ずいぶんと強引だな、といった印象を受けた方もいるのではないでしょうか。
実際にジョージ・バークリーは、この独我論的な思想によって批判を受けています。
しかしその後、彼は『人知原理論』を発表して、彼が真に主張したかった内容を記しています。
これによれば、
↓
だから心は不滅であり、確実な存在と言える。
↓
そして心とは観念の束であり、これは神によってもたらされる。
↓
我々の中に生まれる物体に対する認識は、神によって決定づけられているのだ。
この様に物体に対するあらゆる状態やそれに対する我々の認識は、それを統括する神によってもたらされたものとすることで、懐疑論と無神論の二つを否定したのでした。
世の中のあらゆる物事は全て神によるもの、というわけです。
現代の日本に生きる私たちからすれば、なかなかに理解し難いものとも言えますが、ジョージ・バークリーはこの様にして神の存在の正当性を唱えたのです。
ジョージ・バークリーにまつわるエピソード
ここではジョージ・バークリーの足跡をもう少し辿るために、彼にまつわるエピソードを2つご紹介します。
アメリカに神学を
20代で『人知原理論』などを発表し、若い頃から思想面でも聖職者としても有能だったジョージ・バークリー。
彼は40代になって結婚すると、アメリカに移住します。
その目的は、当時まだ新大陸だったアメリカの地で、神学のための学校を設立することでした。
しかしいざ移住してみるとなかなか思うように資金が集まらず、わずか数年のうちにやむなく断念。
イギリスのロンドンに帰国することになったのです。
晩年
ロンドンに帰国した後にアイルランド国教会の主教に叙任されたジョージ・バークリーは、60代半ばまでその職を務めます。
そして晩年はオックスフォードで隠遁生活を送り、67歳でこの世を去りました。
亡くなるときの奇妙なエピソードとしては、妻が朗読する聖書の物語を聞きながら、突然息を引きとったというものが挙げられます。
真偽のほどは定かではありませんが、最期の瞬間まで聖職者であったということが窺える、ジョージ・バークリーの敬虔さが伝わってくるエピソードです。
きょうのまとめ
今回はアイルランドの聖職者にして哲学者、ジョージ・バークリーの生涯についてその功績と共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
何か新たな発見はありましたか。
最後に、ジョージ・バークリーとはどのような人物だったのかを簡単にまとめると
① 18世紀に活躍したアイルランド出身の聖職者にして哲学者。
② 「英国三大経験論」を代表する一人。
③ 哲学を通して神の存在や教えを肯定、守ろうとした。
「英国三大経験論」を代表する人物の一人となった、ジョージ・バークリー。
敬虔なクリスチャンであったが故に、その思想は偏ったものではありますが、彼の思想の断片はデイヴィッド・ヒュームなど後の哲学者や思想家に着実に引き継がれているのです。
現代人の感覚からすると、なかなか新鮮な思想とも言えるのではないでしょうか。
同時代に活躍した他の哲学者や思想家たちと比較しながら、彼の著作に触れてみるのも面白いかもしれません。
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