19世紀に活躍したフランス人の彫刻家、
オーギュスト・ロダン。
近代彫刻の父として現代でも称賛される彼の作品は、
今なお世界中の人々の心を捉えています。
例えば日本でも、ブロンズ作品の『考える人』などは、作品名を見ただけで、
それがどんなポーズをした彫刻なのかすぐに思い出せるのではないでしょうか。
今回はそんな有名な作品を世に遺した作者、オーギュスト・ロダンが一体どんな人物だったのか、
その生涯を探っていきましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
オーギュスト・ロダンはどんな人?
- 出身地:フランス パリ
- 生年月日:1840年11月12日
- 死亡年月日:1917年11月17日(享年77歳)
- 19世紀を代表するフランス人彫刻家。近代彫刻の父。
オーギュスト・ロダン 年表
西暦(年齢)
1840年(0歳)フランスのパリに生まれる。
1854年(14歳)地元の工芸学校に入学。主に絵画やデッサンを学ぶ。
1857年(17歳)工芸学校を退学後、国立高等美術学校エコール・デ・ボザールに入学志願するも3年連続で不合格。
1860年(20歳)室内装飾の職人として働き始める。
1863年(23歳)動物彫刻家、アントワーヌ・ルイ・バリーに弟子入り。後に装飾の仕事も再開。
1870年(29歳)普仏戦争の影響で家計が厳しくなり、職を求め一家でベルギーへ移住。
1875年(35歳)旅行先のイタリアでルネサンス時代の彫刻を目にし、感銘を受ける。 ベルギーに帰国後、十数年ぶりに彫刻制作を再開する。
1880年(40歳)『青銅時代』が国に買い取られる。国立美術館のモニュメント制作の依頼を受け、テーマに『地獄の門』を選ぶ。
1885年(45歳)フランス北部のカレー市から『カレーの市民記念像』の制作を依頼される。
1888年(48歳)美術館の建設が中止となり、それに伴い『地獄の門』制作も中止となったが、それを拒否し自腹で制作を続ける。コペンハーゲンの展覧会で、『考える人』を展示。
1900年(60歳)パリ万国博覧会で、アルマ広場の特設展示場に一大回顧展を開催。
1906年(66歳)パリのパンテオン前に、『考える人』の拡大像を設置。
1917年(77歳)『地獄の門』が未完のまま死去する。
オーギュスト・ロダンの生涯
ここでは、オーギュスト・ロダンの生涯や功績をご紹介していきます。
挫折を味わう10代
1840年の11月、フランスのパリに生まれたオーギュスト・ロダンは、
両親と姉の4人家族で少年時代を過ごしました。
14歳で地元の工芸学校に入学した彼は、そこで絵画やデッサンを学び、
美術に関する知識や技術を身に着けていきます。
しかし17歳のときにその学校を退学し、より専門的な学びを求めて名門、
国立高等美術学校エコール・デ・ボザールへの入学を志願します。
けれどロダンはその後3度にわたり入学を拒否され、その夢を諦めざるを得ませんでした。
知見を広めた20代~30代半ば
20歳になっていたロダンは、ひとまず室内の装飾職人として働くことに。
その後は動物彫刻家として有名だった、アントワーヌ=ルイ・バリーの元に弟子入りし、
24歳のときに裁縫職人だったローズと出会い、子供を授かります。
しばらく彫刻や装飾の仕事をしながら生活していたロダンでしたが、
29歳のときに勃発した普仏戦争の影響で生活が厳しくなり、家族を連れベルギーに移り住みます。
ブリュッセルの証券取引所の建設に携わることになったロダンは、コツコツと貯金を続け、
30代半ばにして念願だったイタリア旅行に出掛けます。
そこで目の当たりにしたルネサンス期のイタリア彫刻の数々に大きく心を揺さぶられたロダンは、
ベルギーに帰国後、十数年の時を経て再び彫刻家としての道を歩み始めます。
ここからが、近代彫刻の父、オーギュスト・ロダンの始まりでした。
近代彫刻の父
等身大の男性像『青銅時代』を皮切りに、一躍その名を知られるようになった
オーギュスト・ロダン。
40歳を迎える頃には、建設予定にあった国立美術館のモニュメント制作を依頼されます。
そこでロダンがテーマに選んだのが、ダンテの「神曲」地獄篇のなかに登場する、
『地獄の門』でした。
彼は以降、この作品を晩年までつくり続けます。
ちなみに冒頭で触れたブロンズ像『考える人』は、
この『地獄の門』で彫られた人物の一人をテーマとして抜き出し、
単体の作品として制作されています。
『地獄の門』のどこかに『考える人』がいるので、
作品をご覧になる際はぜひ注目してみて下さい。
その後も順調に傑作を生み続けたロダンでしたが、
48歳のときに国立美術館の建設が中止になります。
それに伴い『地獄の門』の制作中止命令が届くと、彼はそれを断り、
お金を払って『地獄の門』を自分の作品として手元に置くことを決意したのです。
やがて祖国フランス以外でもその名を知られるようになった彼は、
デンマークのコペンハーゲンで開かれた展覧会で『考える人』を展示し、
晩年にはパリの万国博覧会で、特設展示場を使って一大回顧展を開き、
多くの人々の心に自身の作品を刻みました。
77歳でその生涯を終えたロダンでしたが、お金を払って手元に置いた『地獄の門』は、
遂に完成することはありませんでした。
オーギュスト・ロダン 知られざるエピソード
ここではオーギュスト・ロダンの裏話を3つご紹介していきます。
修道士になろうとしていた!?
偉大な彫刻家になるずっと前、
ぎりぎりの生活費で暮らしていた20歳前後のオーギュスト・ロダン。
そんな彼の生活を支えてくれたのは、実の姉でした。
しかしその姉はロダンが紹介した男性と恋人になるも、大失恋し修道女となってしまいます。
さらにその修道院生活で体調を崩した彼女は若くしてこの世を去りました。
その知らせに大きなショックを受け、自分がその恋人を紹介したという罪悪感から、
ロダンは自らも修道院に入ろうとしたことがありました。
しかし結局、修道院の院長に修道士に向いていないと諭され、修道士になる道は断たれました。
人型騒動
『青銅時代』という人物彫刻が話題となり、一躍有名となったオーギュスト・ロダン。
しかしこの等身大の人物彫刻は、あまりにもリアルで緻密な人体表現に、
当初は本物の人間から型をとって作られたんじゃないか、と疑われてしまいました。
これに憤慨したロダンは、次に等身大より大きな人物彫刻を作り見事疑いを晴らします。
こうしてその高い技術力を認められた彼の存在は、
この騒動と共にたちまち人々に知れ渡ることとなりました。
内縁の妻と美しい恋人
24歳のときに出会った裁縫職人のローズという女性は、
ロダンにとってその後もなくてはならない存在となりました。
しかし男の子を授かってからも二人が正式な夫婦になることはなく、時は過ぎていきます。
そしてロダンが42歳になったとき、
19歳のカミーユ・クローデルという人物が彼の弟子になります。
ロダンは彼女の美貌にすっかり夢中になり、それ以降約15年に渡り、
ロダンはローズとカミーユとの間に三角関係をつくってしまいました。
しかしその関係も、カミーユが自分とローズのどちらを選ぶのかロダンに迫ったことで、
終わりを迎えます。
結果的にロダンは内縁の妻ローズを選び、ショックを受けたカミーユは徐々に精神を病み、
亡くなるまでを精神病院で過ごすことになりました。
きょうのまとめ
今回は近代彫刻の父、オーギュスト・ロダンについての人生を探っていきました。
最後に、オーギュスト・ロダンとはどんな人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀のフランスを代表する彫刻家。
② 『地獄の門』『考える人』など主に人物の彫刻で知られ、「近代彫刻の父」と謳われている。
③ 30代後半で彫刻家として有名になる前は、装飾職人や建設作業などの仕事をして生活していた。
リアルで精巧な作りとは裏腹に、ドラマチックで動きのあるポーズを刻むロダンの彫刻作品。
国内では静岡市にある静岡県立美術館で、
代表作をはじめとする32点のロダン作品を間近で観ることができます。
興味を持たれた方はぜひ訪れてみて下さい。
<静岡県立美術館>
関連記事 >>>> 「「自然」を愛した芸術家 オーギュスト・ロダンの名言」
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」
コメントを残す