鎌倉幕府において、将軍・源頼朝から絶大な信頼を得ていた御家人
梶原景時。
主には軍事関係を担い、源平合戦でも指揮官として活躍しています。
ただ、大将の源義経とは不仲で、何度となく衝突。
その他の御家人からもあまりよく思われていなかったとされる、ちょっと問題のありそうな人物です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、歌舞伎役者の中村獅童さんに配役が決定!
いったいどんな人物だったのか、しっかりおさらいしておきましょう。
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梶原景時はどんな人?
- 出身地:相模国鎌倉郡梶原(現・神奈川県鎌倉市)
- 生年月日:1140年
- 死亡年月日:1200年2月6日(享年61歳)
- 源平合戦で軍奉行を務めた鎌倉幕府の御家人。源義経ほか、多くの御家人を失脚させようとしたことから、悪人とされることが多い。
梶原景時 年表
西暦(年齢)
1140年(1歳)鎌倉の豪族・梶原景清の次男として生まれる。
1180年(41歳)平氏討伐のため挙兵した源頼朝を「石橋山の戦い」で破る。頼朝が山中へ逃れると、これに温情をかけて見逃す。
1181年(42歳)鎌倉で頼朝と対面。鎌倉幕府御家人となる。
1184年(45歳)「宇治川の戦い」「一ノ谷の戦い」で軍奉行(指揮官)を命じられ活躍。西国5ヵ国の守護に任じられる。
1185年(46歳)「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼすも、作戦を巡って源義経と何度も衝突。義経の独断専行を頼朝に報告する。
1189年(50歳)「奥州合戦」に従軍。奥州藤原氏を滅亡に追い込む。
1190年(51歳)源頼朝の上洛に随行。
1191年(52歳)鶴岡八幡宮の古神体を賜り、梶原八幡神社を築く。
1192年(53歳)侍所別当に就任する。
1199年(60歳)結城朝光の処分を巡り、御家人たちの怒りを買う。66名による連判状が出され、一族とともに鎌倉を追われる。
1200年(61歳)一族を率いて上洛を目指すも、駿河国狐ヶ崎(現・静岡県静岡市)で在地の武士に阻まれる。一族33人が討ち死にし、景時は自刃した。
梶原景時の生涯
以下より、梶原景時の生涯にまつわるエピソードを辿ります!
坂東八平氏の一角に生まれる
1140年、梶原景時は鎌倉の豪族・梶原景清の次男として生まれました。
梶原氏の成り立ちははっきりしていませんが、皇族を始祖とする坂東八平氏に通じているという説があります。
平安時代中期、桓武天皇の子孫にあたる平高望が、子息をともなって関東地方へ下向しました。
ここから、それぞれ別の氏族となって各地に土着したとされるのが坂東八平氏。
平将門、清盛らを輩出した血筋でもあります。
梶原氏はこのなかで、鎌倉で勢力を強めた鎌倉氏の一角とされているのです。
若いころの景時の動向は、これもまたはっきりとは残されていません。
ただ、1160年の「平治の乱」では源氏側の兵として戦い、源氏が没落したのち、平氏に従うようになったという話です。
「石橋山の戦い」で源頼朝を救う
景時の逸話で有名なのが、平氏討伐のために挙兵した源頼朝を、平氏側の立場にありながら救ったという話です。
1180年、頼朝は「石橋山の戦い」にて、景時と大庭景親の率いる平氏の軍に敗走し、山中へ身を隠しました。
景時と大庭は当然、頼朝を捜索します。
そのとき、洞窟に隠れていた頼朝を見つけると、景時はこんなことを言ったというのです。
このあと、表で待っていた大庭は、何もなしで出てきた景時を怪しみ、洞窟へ入ろうとします。
しかし景時はこう言って、それを制しました。
こうして窮地を脱することになった頼朝は、安房国(現・千葉県南部)へ逃れて力を蓄え、翌年に鎌倉入り。
無事、鎌倉幕府を興すことに成功するのです。
それにしても、なぜこのとき、景時が頼朝を見逃したのか。
源氏に従いたい気持ちはあるものの、当時の情勢から仕方なく平氏についていたから?
それとも、頼朝ならきっと国を治める偉業を成し遂げると見抜いていたのでしょうか?
鎌倉幕府へ出仕
1181年のこと、景時は頼朝と再び対面し、鎌倉幕府へ出仕。
以降、頼朝に重用されるようになり、主に軍事、警備を担う侍所の役人を任されます。
1192年には、侍所別当(長官)の職に任じられるほどの出世も見せました。
景時が頼朝に信頼されていたことを物語るこんな逸話もあります。
有力御家人のひとり、上総広常に謀反の疑いがあるとされた際、景時は頼朝の命で暗殺を買って出たのです。
上総と双六に興じている最中、その盤上を飛び越して喉元を掻き切ったとか…。
まさに、暗殺とは読んで字のごとくですよね。
このほか、頼朝の嫡男・頼家誕生の際は出産の諸事を引き受けるなど、重要な任務をたびたび任されています。
頼朝が景時を重んじたのは、石橋山での一件もあってのことかもしれません。
しかしなにより、景時は和歌に精通しているなど、武士としては珍しいぐらいの教養人で、そういった点から信頼を得ていたといいます。
戦の際も、ほかの御家人が
「勝った!」
ぐらいしか報告しないなか、景時は戦況や戦死者、敵方の武将の様子などを細かく記録しており、かなりのキレモノと見られていたようです。
源義経との対立
1184~85年にかけて、源平合戦は一挙に佳境を迎えます。
そんな最中、景時は軍奉行として軍の指揮を司り、その戦功から、土肥実平とともに西国5ヵ国の守護を任されるなど、幕府での権限もいよいよ極まってきていました。
しかし、この平氏との激戦を巡って、問題がひとつ…。
源氏は源範頼を大将とする軍と、源義経を大将とする軍の二手に別れて戦っていました。
このうち、景時は義経の側に配属されたのですが、作戦を巡って、義経と何度も衝突しているのです。
たとえば、「屋島の戦い」では、義経が嵐のなか、たった5隻の船を率いて、讃岐国(現・香川県)に本拠を置く平氏に奇襲作戦をかけたことが有名。
このとき、景時は万が一に備え、船を後退ができるような設計にしておくことを進言しました。
すると義経は
「そんなことをしたら、兵が臆して逃げてしまう」
と、景時の案を全否定。
この一件は俗に「逆櫓論争」と呼ばれています。
さらに「壇ノ浦の戦い」では、自ら先陣を切って戦うことを主張した義経に対し
と、今度は景時が全否定。
結果はすべて義経の思う通りに運び、平氏を滅ぼすことに成功しています。
ただ、部下の意見を聞き入れようとしない義経の姿に、景時はほとほと困り果てていたようで、その様子を頼朝に報告しました。
このことは、のちに頼朝と義経のあいだに不和が生じる一因となります(ほかにもいろいろ理由はあるのですが…)。
このほか、幕府に順じない源行家の討伐が決まった際には、景時が義経を追い詰めるような行動にも出ています。
義経はこのとき、病身を理由に出陣を延期してほしいと申し出るのですが、景時は
と頼朝に報告。
伝令に向かった使者と、義経の対面が1日遅れていたため、義経は1日食事を摂らず、やつれた病身を演出したのだと疑ったのです。
このようにしながら、義経は徐々に幕府から追われる立場へと身を落とすこととなっていきました。
多くの御家人を失脚させようとした?
景時から頼朝への報告によって、失脚しそうになった御家人は、義経以外にもたくさんいます。
それらの報告に対し、後世の人たちはこんな呼び名を付けました。
「景時の讒言」
たとえば、壇ノ浦の戦いで戦功を挙げた夜須行宗が恩賞を願い出た際のこと、
と言い、景時は夜須が戦功を偽っていると疑ってかかります。
また、畠山重忠という御家人は、謹慎に処せられた際、反省の念から一切の食べものを口にせず、気の毒に思った頼朝によって赦免に。
これを不服に思った景時は、あろうことか畠山に謀反の疑いがあると、頼朝に進言するのです。
結局、これらはどちらも冤罪で、夜須も畠山も最終的に嫌疑を晴らされています。
こう見ると、義経の件も含め、景時にはいかにも悪意があるように見えますが…真相はわかりません。
単に神経質で不正に敏感な性格だったのかもしれませんし、ある意味、正義感が行き過ぎているとも取れます。
なんにせよ、この讒言のイメージから、景時は多くの作品において、悪役として描かれるようになっていったのです。
「梶原景時の変」で没落
1199年に頼朝が没し、有力御家人を中心とした「十三人の合議制」が敷かれると、景時もこれに名を連ねました。
妻が二代将軍・頼家の乳母を務めていた関係で、景時は頼家の側近だったためです。
しかし頼家はまだ若くて未熟で、独裁者的なきらいがあったため、御家人たちからの受けはよくありませんでした。
あるとき、結城朝光という御家人がこのことを嘆き
「忠臣、二君に仕えずというし、私は頼朝さまが亡くなったのちは出家しようと思っていた」
と、口にします。
これを耳にした景時は、
と激怒。
頼家に結城の処分を迫ります。
ただ…景時はこれまでの動向から知っての通り、御家人たちに嫌われすぎていました。
そう、結城を罪に問うつもりが、御家人66名の署名を集めた連判状を提示され、逆に自身が排斥されてしまうのです。
一説では、頼朝の次男・実朝の乳母を務めた阿波局が
「梶原景時があなたを断罪するつもりだから、手を打たないとマズイですよ!」
と、結城を促したという話。
これは実朝を将軍にするための陰謀だったともされています。
こうして、景時は一族とともに、鎌倉を去ることになりました。
翌年には、一族を率いた上洛も試みていますが、駿河国狐ヶ崎(現・静岡県静岡市)にて、在地の武士に討伐されてしまいます。
景時はなにを目的に上洛しようとしたのか。
西国の兵を集めて新勢力を築こうとした?
単に朝廷に出仕しようとした?
その真相もまた闇のなか。
この一連の出来事が「梶原景時の変」です。
きょうのまとめ
御家人の動向に対し、何かにつけて厳しく処断を求めた梶原景時。
彼が嫌われ者とされたことは、仕方がないようにも思えます。
ただ、義経に関していえば、戦場で傲慢な振る舞いがあったこともたしかだったという話。
頼朝に反旗を翻した際も、義経に従う武士はほとんどいなかったといいますし…。
英雄とされる義経でも怪しい部分があるのだから、景時だって、一概に悪人だったと断じることはできませんよね。
最後に今回のまとめ。
① 梶原景時は「石橋山の戦い」で敗走した源頼朝を見逃し、救った。そのときの縁で鎌倉幕府へと出仕する。
② 幕府では侍所など、主に軍事関係を担った。有力御家人の暗殺を命じられるなど、頼朝からは相当な信頼を得ていた。
③ 源平合戦では軍奉行として活躍し、西国5ヵ国の守護を任されるほどの戦功を見せた。
④ 源義経の戦場での采配に疑問を感じ、頼朝に苦言を呈した。このほか、多数の御家人が景時の報告で失脚しそうになった。
⑤ 二代将軍・頼家を軽んじる発言に怒り、結城朝光を処断しようとするも、御家人たちから反感を買い、逆に鎌倉を追われてしまう。
さて、大河ドラマではどのように景時が演じられるのか。
お家芸である讒言に期待がかかります。
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