エカテリーナ2世とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「皇帝」の中でも、特に偉大な功績を成した人物にだけ与えられる称号の「大帝」。

この称号を得た人物の中に、ロシアの女帝エカテリーナ2世がいます。

夫に対してクーデターを起こし、多くの愛人を抱えていたことから、悪女とも言われることのある彼女。

エカテリーナ2世とは、一体どのような人物だったのでしょうか。

今回はその生涯や人物像について探っていきます。

 

エカテリーナ2世はどんな人?

プロフィール
エスカタリーナ2世

エスカタリーナ2世
出典:Wikipedia

  • 出身地:北ドイツ
  • 生年月日:1729年5月2日
  • 死亡年月日:1796年11月17日(享年67歳)
  • ロマノフ朝第8代ロシア皇帝。数少ない「大帝」の一人。

 

エカテリーナ2世 年表

年表

西暦(年齢)

1729年(0歳)北ドイツに小領主の娘、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケとして誕生。

1743年(14歳)ロシアの皇太子、ピョートル3世の妃候補としてロシアのサンクトペテルブルクに渡る。

1744年(15歳)ロシア正教に改宗。エカテリーナ・アレクセーエヴナに改名。

1745年(16歳)正式に皇太子妃となる。

1754年(25歳)第一子、パーヴェル1世を出産。

1761年(32歳)女帝エリザヴェータ崩御。

1762年(33歳)夫にして皇帝のピョートル3世に対するクーデターの後、女帝に即位。

1768年(39歳)第一次露土戦争。

1772年(43歳)第一次ポーランド分割によりベラルーシを獲得。

1773年(44歳)約一年に渡る、軍人プガチョフによる反乱「プガチョフの乱」。

1783年(54歳)クリミアを併合。

1796年(67歳)崩御。

 

エカテリーナ2世の生涯

ここからは早速、エカテリーナ2世の生涯について功績と共に見ていきましょう。

女帝にして大帝、エカテリーナ2世誕生の経緯

エカテリーナ2世がロシアの皇帝に即位したのは1762年、彼女が33歳を迎える頃。

彼女が即位に至るまでには、少し複雑な経緯があります。

エカテリーナ2世の2代前の皇帝は、エリザヴェータという未婚で子供のいない女帝でした。

彼女が後継者として立てたのは、ドイツから呼び寄せた甥のピョートル3世

エカテリーナ2世はこのピョートル3世と16歳の時に結婚します。

しかし次期皇帝となる夫は精神的に未熟、かつ大のドイツ好きで有名。

会話は基本的にほとんどドイツ語で行い、身の回りの物もドイツ風で固めているような人物でした。

そしてその精神的未熟さから統治能力も期待されておらず、ロシア貴族たちの間の評判は良くありませんでした。

その一方で皇太子の妃となったエカテリーナ2世は勤勉なインテリ。

14歳で皇太子妃の候補となった時からひたすら努力を重ね、向上心を忘れない性格でした。

そんな彼女に魅了される人々は多く、貴族の間では密かに、次期皇帝にエカテリーナ2世を立てる計画が持ち上がっていたのです。

そして1762年。

女帝エリザヴェータが崩御すると、ピョートル3世が皇帝に即位

しかし彼の打ち出した政策はロシアの人々を失望させ、おまけに愛人を妃に据えるという有様でした。

エカテリーナ2世とピョートル3世は結婚当初から不仲で有名で、それぞれに愛人がいました。

そしてピョートル3世は、叔母が亡くなり自分が皇位に就いたことで堂々とエカテリーナ2世を追い出そうとしますが、知性でも人望でも勝っていた彼女には当然叶うはずもありませんでした。

エカテリーナ2世は、軍とロシア正教に後押しされる形でクーデターを決行

夫に対し、自主的な退位を求めたのでした。

こうして遂にロシア皇帝の座に即位したエカテリーナ2世。

ピョートル3世が即位してから、わずか半年後のことでした。

強国ロシアの基盤


30代前半にして、ロマノフ朝第8代ロシア女帝となったエカテリーナ2世。

彼女は崩御する67歳までの間、その玉座で政治的手腕を存分に発揮していきます。

外交政策に関しては、

・オスマン帝国との戦争

・3度に渡るポーランド分割

などを経て、ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナの方面にまで拡大。

また、その政治理念に人道主義(人間性、人間愛を重視し、福祉の向上を目指す立場)を掲げ、

・衛生問題の改善

・ロシア初の女性教育を実施

・飢餓対策にジャガイモを普及

するなど、ロシア帝国を内側からも、外側に対しても強化していきました。

ちなみに彼女が即位したロマノフ朝は約300年に渡り続いた王朝ですが、エカテリーナ2世の統治時代に最も繫栄したと言われています。

現在ではロシアと言うと、世界的にも大きな影響力を持つひとつの国家です。

しかしエカテリーナ2世が統治を開始するまでの間、ロシアは西ヨーロッパの国々に比べてあらゆる面で後れを取る田舎の国でした。

強国ロシアの基盤は、彼女によって築かれたと言えるのです。

文化事業

さらにエカテリーナ2世は人道主義の元、文化面に関しても力を注いでいきました。

先にご紹介したように女性教育を実施した他にも、ロシア文化や教育面全体の整備を行っています。

ロシア語に関しては、辞書の編纂へんさん事業を実施。

これが後のロシア文学発展の基盤となっていくのです。

また、エカテリーナ2世は自らが書き手でもありました。

実際に、

・回想録

・童話

・戯曲

などが、彼女の作った作品として残っています。

学問や音楽に芸術など、文化面に当時の最新技術を取り入れていったエカテリーナ2世。

ロシアが誇る美術館、「エルミタージュ美術館」も彼女が建てさせたものです。

実はこの美術館、もともとは美術館としてではなく、彼女の集めた美術品の保管場所として立てられたもの。

エカテリーナ2世は美術品のコレクターでもあったのです。

 

エカテリーナ2世にまつわるエピソードや伝説

ここではエピソードや伝説をもとに、エカテリーナ2世の人物像に迫っていきます。

ロシアに帰化


現在では、すっかりロシアを代表する偉人として認識されているエカテリーナ2世。

しかし彼女はロシア人では無いということをご存知でしたか。

実は彼女は元々、北ドイツのあまり裕福ではない貴族の娘でした。

そして元の名をゾフィーと言います。

縁あってロシアの女帝エリザヴェータが甥の婚約者を探しているところに、その候補者として選ばれたのです。

14歳で単身ロシアに渡った少女ゾフィー。

そこでよそ者としての疎外感を味わった彼女は、徹底的にロシアに帰化することを決意。

・名をかつてのロシア女帝から採り、エカテリーナと改名

・プロテスタントのルター派からロシア正教に改宗

・ロシア語やロシアの歴史を猛勉強(知恵熱を出し倒れる程)

等々。

生来の知性と努力家な側面が、やがて彼女を偉大なるロシアの女帝へと導いていったのです。

仕事も恋もぬかりなく


ロシアを愛し、ロシアのために尽力したエカテリーナ2世。

多くの人々に支持され、まさに多忙な毎日を過ごしていました。

その一方で、彼女にはたくさんの愛人がいたことでも知られています。

明らかになっているだけでもその存在は12人

60代に入っても40歳年下の愛人がいたと言われており、毎晩彼女の寝室に向かう相手が違う人物だったという話もあります。

そして彼女は愛人たちとの関係さえも巧みに操り、プライベートにも政治にも上手く取り入れていったのです。

愛人たちの中にはもちろん金銭目的の人もいましたが、深い理解の元に彼女の周りに集まる存在も多くいました。

中でも軍人ポチョムキンは、エカテリーナ2世にとって公私ともに重要な良きパートナーでした。

 

きょうのまとめ

今回は、ロシアの女帝にして大帝のエカテリーナ2世について、その生涯を主な功績やエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、エカテリーナ2世とはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① ロシアのロマノフ朝第8代皇帝。

② ロシアの近代化に尽力し、田舎の国から強国への基盤を築いた。

③ 実はドイツから嫁いできたドイツ人。

あふれる才能と努力により、ロシアという国の存在力を高めたエカテリーナ2世。

ロシア皇帝としては最も在位が長いと言われる彼女の心を癒したのは、愛人たちと集めた美術品の数々なのです。

 
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