幕末期、幕府に反旗をひるがえした攘夷志士たち。
身分がすべてだった江戸時代において、下級武士たちの行動のきっかけとなったのは、彼らを先導する儒学者の存在でした。
もっとも有名なのは、長州藩に攘夷旋風を巻き起こした吉田松陰。
しかし、もとを辿れば尊王攘夷は関東で勃興した考え方です。
大橋訥庵は、江戸にて攘夷志士たちを育てた儒学者。
幕府老中が襲撃された「坂下門外の変」を画策したことでも知られています。
大河ドラマ『青天を衝け』では、山崎銀之丞さんが配役され、渋い演技で魅せてくれました!
訥庵が実際はどんな人物なのか、気になっている人も多いのでは?
今回はその生涯にせまります。
2021年大河ドラマ「青天を衝け」に登場する人物一覧についてはこちらをどうぞ。
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大橋訥庵はどんな人?
- 出身地:江戸・飯田町(現・千代田区)
- 生年月日:1816年
- 死亡年月日:1862年8月7日(享年47歳)
- 幕末期、攘夷派の志士を先導した儒学者。老中・安藤信正が襲撃される「坂下門外の変」を画策
大橋訥庵 年表
西暦(年齢)
1816年(1歳)江戸・飯田町(現・千代田区)にて、長沼流兵学者・清水赤城の四男として生まれる。
1829年(14歳)信州飯山藩士・酒井義重の養子となる。
1835年(20歳)江戸へ留学。
1837年(22歳)儒学者・佐藤一斎の愛日楼塾に入門。
1841年(26歳)大橋巻子と結婚。日本橋の豪商・佐野屋大橋家の婿養子となる。日本橋に私塾「思誠塾」を開く。
1850年(35歳)宇都宮藩主・戸田忠温の侍講(藩主に講義を行う学者)を務める。
1853年(38歳)前水戸藩主・徳川斉昭への意見書『隣疝臆議』を送る。
1857年(42歳)『闢邪小言』を刊行し、朱子学の見地から西洋を批判。国内の注目を集める。
1861年(46歳)『政権恢復秘策』を朝廷へ上奏。幕府の批判と、攘夷勅命の要望を出す。
1862年(47歳)老中・安藤信正の襲撃(坂下門外の変)、幕府への挙兵を画策するも、幕府に情報が洩れて投獄。のち赦免となるが、毒殺される。
生い立ち
1816年、大橋訥庵は江戸飯田町(現・千代田区)にて生を受けます。
父は、17世紀後半に勃興した長沼流兵法を修めた兵学者・清水赤城。
四男だった訥庵は14歳のころ、母方の親族である信州飯山藩士・酒井義重の養子となります。
ただ、のちに江戸へ出ると酒井家と離縁しており、家督を継ぐにはいたりませんでした。
江戸へ出た訥庵が師事したのが、幕府直轄の名門校・昌平坂学問所にて総長を務めた高名な儒学者・佐藤一斎。
訥庵はその教えをもって、儒学者としての道を歩んでいくこととなります。
宇都宮藩屈指の儒学者となる
1841年、訥庵は江戸日本橋の豪商・大橋淡雅の娘・巻子と結婚。
婿養子となり、大橋姓を名乗ります。
ここでポイントとなったのは、養子入りで訥庵が宇都宮藩士の籍を得たことでした。
日本橋にて私塾「思誠塾」を開くと、藩士を中心に教えを広めていき、その評判は藩主・戸田忠温の知るところに。
1850年からは、藩主直々の要請で江戸藩邸へ招かれ、侍講として教鞭を振るいます。
こうして訥庵は、宇都宮藩屈指の儒学者として名を馳せていくわけですね。
『青天を衝け』7話では、渋沢栄一の従兄・尾高長七郎が思誠塾を訪れ、訥庵の演説に感銘を受けるシーンが描かれていました。
訥庵の尊王攘夷思想
訥庵は儒学のなかでも、朱子学と呼ばれる分野に傾倒して講義を行っていました。
朱子学は、「天の意に従い、自身の欲を律していくこと」をモットーにした教え。
天の意は天皇陛下にあたり、古代日本からの伝統を重んじたものだということがわかります。
朱子学は、幕末期に一大ムーブメントを起こした尊王攘夷思想にもつながる学問。
(※尊王攘夷思想…天皇を敬い、外国人を追い払うという考え方。外国文化を流入させず、これまでの日本の体制を守ろうとした)
訥庵は教鞭を執るなかで、日に日に攘夷思想を強めていきます。
1853年にペリーが来航するとその活動も一層活発になり、
・西洋学術を批判した『闢邪小言』を刊行。宇都宮藩、水戸藩を中心に大きな反響を呼ぶ
などなど、幕府も無視できない影響力を発揮するように。
『闢邪小言』なんかは、書き上げるのに6年もかけていますから、もう相当な気合いの入りようです。
「坂下門外の変」を画策…その目的は?
大橋訥庵の生涯において、一番衝撃的な出来事といえば、1862年1月15日の「坂下門外の変」。
大老・井伊直弼亡き後の幕府を率いていた老中・安藤信正が襲撃された事件です。
安藤は暗殺こそ免れたものの免職となり、幕政に少なからず影響を与える結果となりました。
訥庵は計画実行の3日前、1月12日に捕縛されたため襲撃に参加はしていないのですが、なんといっても、計画を考えた張本人です。
坂下門外の変は、欧米諸国との条約を巡って、その改正に弱腰な姿勢を見せる幕府への抗議のために行われました。
しかし実のところ、訥庵は幕府へのけん制だけでなく、もっとその先を見据えてこの計画を画策していたのです。
当初の計画は「攘夷の勅命」「幕府への挙兵」だった
坂下門外の変が画策される以前、訥庵はこれとは別の方法で幕府の改革を促そうとしていました。
計画は1861年9月、訥庵が孝明天皇へ向け『政権恢復秘策』という意見書を上奏したことに始まります。
その内容はというと…
・不安をあおる結果となったのに、条約改正に対しても消極的
・諸藩に広めるようにと下された『戊午の密勅』も、自分たちの立場が弱くなるのを恐れてもみ消してしまった
などと、幕府を批判。
そのうえで、
・諸藩にも攘夷の勅命を下し、藩士たちを奮起させる。そうすれば幕府に圧力がかかり、これまでの態度を改めるはず
といった内容を主張しました。
つまり、朝廷を軽視して好き放題やっていた幕府を改めさせ、そのうえで条約改正にも臨もうというのが目的。
訥庵はそれこそ朱子学の教えにのっとり、
「朝廷>幕府」という、古代日本の体制に戻したいと考えたのですね。
勅命が下されたあかつきには、
皇族出身の僧・輪王寺宮を擁立した挙兵を考えており、幕府へさらにプレッシャーを与える手はずが整えられていました。
しかし結局、訥庵の意見書は採用されず。
孝明天皇は妹・和宮を将軍家へ嫁がせ、幕府が提案した公武合体の案に傾いていきます。
(※公武合体…幕府と朝廷が協力して政治を行うこと)
この時期、条約締結や大老の暗殺事件などで権威を落としていた幕府は、朝廷に近づくことで復権を図っていました。
「朝廷>幕府」を実現したい訥庵としては、これは絶対に認められない方針。
意見書を上奏したことには、和宮の降嫁に反対の意を唱える意味もあったのです。
『青天を衝け』10話でも、和宮の降嫁を巡って、思誠塾の面々が安藤老中に怒りを募らせる場面がありましたよね。
老中襲撃に方針変更。でも、それだけじゃ幕府は変わらない…
勅許を受けたあとの挙兵に備え、訥庵は兵を集めようと水戸藩を頼りました。
その打診の折、水戸藩が示したのは
という、老中襲撃の計画。
勅許をもとに幕府へプレッシャーをかける訥庵のやり方より、もっと直接的な方法を好んだわけです。
水戸藩はこの案を強固に支持したため、挙兵に関してはあまり協力的ではありませんでした。
そのため訥庵は途中から挙兵を諦め、老中襲撃に計画を絞ることとなります。
でも、やはり幕政改革の決定打として、「攘夷の勅命」と「幕府への挙兵」は外せない…。
ドラマのなかでも、老中暗殺を命じられた長七郎を止めるため、兄の尾高惇忠が
と、言っていましたよね。
訥庵自身も、もっと幕府の仕組みを根本からくつがえすような革命が必要だとわかっていました。
そのため、老中襲撃が済んだあかつきには、再び勅命の要請を行おうと考えていたのです。
勅命が下ったあとの挙兵についても再考し、今度は一橋慶喜を頭領に立てようとしました。
一橋家近習の山木繁三郎が訥庵の門弟だったため、これに関しては直接的なコネクションもあります。
ただ、ここで山木に慶喜への上書を託したことが、訥庵にとって命取りでした。
上書を受け取った山木は
と、老中・久世広周に計画を洩らしてしまうのです。
こうして、1862年1月12日、大橋訥庵は「坂下門外の変」の実行を待たずして、投獄されてしまうことになります。
その後、宇都宮藩の働きかけで赦免となったものの、同年7月に死没。
何者かによる毒殺だったという話もあります。
きょうのまとめ
大橋訥庵が画策した幕政改革は、結局「坂下門外の変」に終わり、実を結ぶことはありませんでした。
ただ、天皇へ直に意見書を出し、一橋慶喜や輪王寺宮のような人物にもアクションをかけられるその影響力は、やはり計り知れません。
もし訥庵の計画がすべてうまく進んでいたとしたら、「朝廷>幕府」の体制が完成し、時代はまた違った結末を迎えていたかも?
最後に今回のまとめです。
① 大橋訥庵は江戸日本橋の豪商・大橋淡雅の婿養子となり、宇都宮藩の籍を得た。その後、思誠塾を開くと藩内で評判が広まり、藩主の侍講も務めるようになった。
② 訥庵は朱子学に基づいた尊王攘夷思想を、宇都宮藩・水戸藩を中心に広めていく。その活動は第9代水戸藩主・徳川斉昭への意見書提出、西洋学術を批判する書籍の執筆などにも及んだ。
③ 幕政を改めるため、訥庵が求めたのは攘夷の勅命と、勅命をもとに幕府へプレッシャーをかけるための挙兵だった。しかし水戸藩へ協力を求めたところ、意見が老中襲撃へ傾き「坂下門外の変」を画策するにいたった。
しかし、学問を追求し、自身の力だけで身を立てていったその生き様には、魅せられるものがありますね。
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