孝明天皇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

海外列強が迫る幕末期に天皇に即位し、諸藩を倒幕へと向かわせる一因を作った

孝明天皇こうめいてんのう

大河ドラマ『青天を衝け』では、歌舞伎役者の尾上右近おのえうこんさんが配役に選ばれ、注目度も高まっています。

若き日の渋沢栄一を攘夷じょうい活動に向かわせたその時勢は、いかにして出来上がっていったのか。

孝明天皇の動向を辿ることで、その時代の構図が見えてきます。

孝明天皇とはどんな人だったのか、その生涯に迫りましょう。
 

孝明天皇はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:京都・平安京
  • 生年月日:1831年7月22日
  • 死亡年月日:1867年1月30日(享年35歳)
  • 海外諸国との条約締結に反対し、攘夷を唱え続けた天皇。その動向から、諸藩に倒幕の機運を生み出した。

 

孝明天皇 年表

年表

西暦(年齢)

1831年(1歳)仁孝にんこう天皇の第四皇子として生まれる。

1835年(5歳)親王宣下が行われ、統仁おさひと親王を名乗る。

1840年(10歳)立太子の儀により、皇太子となる。

1846年(16歳)仁孝天皇が崩御ほうぎょ。天皇に即位する。

1847年(17歳)朝廷の教育機関・学習院の開講式を行う。

1848年(18歳)元号を嘉永と定める。

1855年(25歳)国内に不幸が続いたため、元号を安政に改める。

1858年(28歳)幕府から「日米修好通商条約」調印の勅許を求められ、再考を促す。幕府は勅許を得ないまま条約を締結。水戸藩へ「戊午ぼご密勅みっちょく」が下される。

1860年(30歳)鎖国と攘夷実行を条件に、妹和宮かずのみやの将軍降嫁を認める。

1863年(33歳)第14代将軍・徳川家茂が上洛。攘夷の勅命を下す。「八月十八日の政変」により、攘夷派の公家や長州藩を追放する。

1865年(35歳)諸外国が朝廷に直接条約の勅許を要求。これを認める。

1867年(37歳)京都御所にて崩御。

 

16歳で天皇に


1831年、孝明天皇は仁孝にんこう天皇の第四皇子として誕生。

仁孝天皇は46歳の若さで亡くなったため、わずか16歳で天皇に即位することとなります。

翌年の1847年には朝廷の教育機関として、仁孝天皇の代で設立が進められていた「学習院」を開講。

実のところ公家の子息たちの学校というのは、平安時代の「大学寮」が焼失して以来600年以上存在しませんでした。

幼少期はみんな、個別に学者などから教えを乞うのがスタンダードになっていたのですね。

公家の教育制度が大きく変革を遂げる、ある意味記念すべきタイミングで、孝明天皇は即位したといえます。

一方で、この時期の即位は、ある種恵まれないタイミングとも取れます。

・黒船来航による動乱

・2万人以上の死傷者が出た安政の大地震

などなど、国難が立て続けに押し寄せた時期だったのです。

そのため、孝明天皇は在位にあった20年のあいだ、計6回も改元を行うことに。

明治天皇からは、一世一元の制(天皇ひとりにつき元号1つ)という決まりができましたが、昔は不吉な事件などがあると、厄払いの意味で改元が行われていたのです。

このように、孝明天皇の生涯というのは、そのまま幕末の混乱を象徴しているといえます。

 

日米修好通商条約の調印を巡って

孝明天皇は、熱心に攘夷じょういを唱え続けた人物として知られています。

(※攘夷…外国人を追い払おうという考え)

その代表的な出来事が、1858年の「日米修好通商条約の調印」を巡る混乱でしょう。

勅許を阻止した「八十八卿列参事件」


1856年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田へ来航。

翌年にかけて幕府と交渉を行い、日米修好通商条約の調印を迫ります。

応じなければアメリカ側が武力行使に出る不安があったため、幕府は条約を締結しようと考えますが、

朝廷の許可なくこれを結んでしまうのはどうかという話に。

幕府は勅許ちょっきょを得るため、老中・堀田正睦まさよしを上洛させます。

孝明天皇は

孝明天皇
アメリカの圧力に屈して条約を結んでしまうことは、日本の国体を傷つけることになる

と考えており、条約の締結には反対でした。

200年以上続いた鎖国をくつがえすことは、先祖が築いてきた礎に仇をなすということ。

条約を認め、自身の代で日本を大きく変貌させてしまうことに、底知れない不安を覚えていたのです。

しかし、朝廷には太閤・鷹司政通たかつかさまさみちをはじめとする開国論者もいたため、なかなか意見はまとまりません。

そうこうしているあいだに、勃発したのが「八十八卿列参事件」

条約締結に反対した公家衆88名によるデモ運動です。

「反対する者がこれだけいるなら、やはり勅許は出せない」

という事態になり、天皇は幕府に対して再考を促します。

しかしアメリカ艦隊が眼前に迫った幕府にしてみれば、もたもた考えている暇などありません。

こうして、大老・井伊直弼いいなおすけ主導のもと、勅許を得ないまま条約が締結されてしまうこととなります。

「戊午の密勅」による混乱


幕府が勅許を得ずに条約を結んだことを知った孝明天皇は、当然のごとく大激怒。

ただちに上洛し、状況説明するよう幕府に命じます。

これに対し、幕府は老中・間部詮勝まなべあきかつを向かわせる旨を返答するも、その最中にもロシアやイギリスと条約を結んでしまいます。

こうした動向に際し、孝明天皇が下したのが、水戸藩へ向けた勅書戊午ぼご密勅みっちょくでした。

その内容は、条約を勝手に締結した幕府を非難し、諸藩協力のもと幕政改革を行うよう指示するもの。

通常、朝廷が指示を出すのは幕府に対してだけで、その配下である藩に直接勅命が下るのは異例の事態です。

これを受け、政権転覆を危惧した幕府は、勅書発行に関係したと思われる幕臣や、朝廷関係者を徹底して弾圧(安政の大獄)

そのうえで天皇には事情を説明し、和解にいたります。

ただ、この安政の大獄によって処分された者は100名以上にも上り、諸藩の大きな反感を生むことに。

事態は井伊直弼が暗殺される「桜田門外の変」にまで発展し、幕府は権威を大きく失墜させることとなりました。
 

公武合体を行った天皇の思惑


1860年になると、幕府は暗殺事件で低下した権威を回復すべく、朝廷と一体となって政治を行う「公武合体」を画策し始めます。

具体的には、孝明天皇の妹和宮かずのみやを、第14代将軍・徳川家茂の妻とすることで、以降の協調を確約しようとしました。

結果として孝明天皇はこの提案に応じます。

これがなぜかを知るうえで押さえておきたいのが、前述の日米修好通商条約の締結に天皇が理解を示した経緯です。

天皇が幕府の条約締結をやむなしとしたのは、

「戦争になるのを避けるため、あの場は条約を結ぶしかありませんでした。国内の状況が整い次第、鎖国への復帰に尽力するつもりです」

と、幕府から説明を受けたため。

この鎖国への復帰を、10年以内に実現させる約束のもと、妹の降嫁にも応じることにしたのです。

条約改正の工作も、幕府と朝廷が協力して進めていくほうが賢明だと考えたのでしょうね。

そして、ここでもうひとつ踏まえておきたいのは、天皇は決して武力による攘夷を望んでいないということです。

天皇の唱える攘夷はあくまで、国の体制を整え、海外諸国と交渉のうえ鎖国の状態に戻すこと。

しかし諸藩や朝廷内には、これをはき違えている者が大勢おり、国内に武力による攘夷の機運が広がります。

この時期に攘夷活動に夢中になった渋沢栄一も、そんな時勢に突き動かされた一員といえますね。

1863年には「八月十八日の政変」により、過激な攘夷論を唱える長州藩や朝廷内の攘夷派が排斥されます。

幕府と協力して事態を収拾していこうという天皇からすれば、武力による的外れな攘夷論を唱える面々を退けるのも道理。

しかし、続いて長州征討を行ったことや、アメリカから直接交渉を迫られて条約の勅許を下したことで、諸藩は

「孝明天皇はもう頼りにできない」

と考えるようになります。

こうして時勢は

「朝廷に取り入ろうとする幕府を倒すしかない!」

という方向に向かって行くのです。

 

突然の崩御・毒殺説も?

時局は混乱を極める最中、孝明天皇は37歳の若さでその生涯を終えることとなりました。

突然の発熱による体調悪化

死因は天然痘とされていますが、治療にあたった医師たちが残した記録に不自然なところがあり

「毒殺されたのでは?」

という考察もされています。

経過段階では

「順調に回復に向かっている」

と記されているのに、容体が急変して亡くなっているためです。

この症状は、猛毒で知られるヒ素によるものによく似ているという話。

ただ、医師たちの記録はどれも曖昧なところがあり、決定的な証拠は残っておらず。

真相は闇の中ですが、多方面から反感を買っていた天皇の立ち位置を考えると、十分にあり得る話ですよね。

 

きょうのまとめ

海外諸国との条約締結に際し、孝明天皇が認められないとしていたのは、あくまで

「日本側が屈した」

という事実だけで、武力による攘夷などもってのほか。

ただ、テレビやネットが発達した現代でも、国民は政府の思惑を汲み取るのに難儀しているのですから、

書状でやり取りがされていたこの時代にすれ違いが生まれるのは、仕方がないというかなんというか…。

決して能力が乏しい人ではなかったはずなのに、時勢に振り回されたのは気の毒に思えます。

最後に今回のまとめです。

① 孝明天皇が即位したのは、黒船来航や安政の大地震など、国難が相次いだ時期だった。そのため、20年のうちに6回も改元を行っている。

② 日米修好通商条約の調印に反対するも、幕府が勝手に条約を締結。水戸藩へ「戊午の密勅」が下され、幕府が政権転覆の危機に。事態は条約締結反対派の大弾圧に発展した。

③ 孝明天皇は条約を改正して鎖国に戻すべく、幕府と協力して政策を行っていくことにした。しかし、朝廷や諸藩には天皇の意志を勘違いしている者がおり、武力による攘夷論がはびこった。

若き渋沢栄一を突き動かす、時代の転換点を作った孝明天皇。

ドラマでどのように演じられるのか期待が高まります。
 
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