寺内正毅とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

第一次世界大戦下で首相となり、国民から「ビリケン宰相」と呼ばれた

寺内正毅てらうちまさたけ

朝鮮総督や陸軍大臣も務め、この時代の陸軍を形作った人でもあります。

首相としてはあまり活躍しなかったため存在感の薄さは否めませんが、印象的なあだ名から、どんな人だったのかすごく気になりますよね。

歌手の宇多田ヒカルさんの親戚筋だという話もありますよ!

そんな寺内正毅に関して、今回はその生涯から人物像を探っていきます。

 

寺内正毅はどんな人?

プロフィール
てらうちまさたけ

寺内正毅(てらうちまさたけ)
出典;Wikipedia

  • 出身地:周防国吉敷郡すおうのくによしきぐん平川村(現・山口県山口市)
  • 生年月日:1852年2月24日
  • 死亡年月日:1919年11月3日(享年67歳)
  • 朝鮮総督を経て、第一次世界大戦下で内閣総理大臣を務めた軍人。日本各地で起こった米騒動により失脚した。あだ名は「ビリケン宰相」。

 

寺内正毅 年表

年表

西暦(年齢)

1852年(1歳)周防国吉敷郡すおうのくによしきぐん平川村(現・山口県山口市)にて、長州藩士・宇多田正輔の三男として生まれる。

1864年(13歳)高杉晋作の奇兵隊に入隊。西洋銃の操作や国学を学ぶ。

1867年(16歳)戊辰戦争に参加。倒幕軍として最終局面の函館戦争まで転戦する。

1874年(23歳)新宿区戸山の陸軍戸山学校を卒業。陸軍士官学校に勤める。

1877年(26歳)西南戦争に従軍。「田原坂の戦い」にて右手を負傷する。

1882年(31歳)閑院宮載仁親王かんいんのみやことひとしんのうに付き従い、フランスに留学する。

1886~1900年(35~49歳)帰国し、陸軍大臣官房副長、陸軍士官学校長、参謀本部第一局長、参謀本部次長などを歴任。日清戦争や義和団の乱に際し、中国に赴き軍備を担った。

1901年(50歳)第一次桂内閣が成立し、陸軍大臣に任じられる。

1906年(55歳)南満州鉄道設立委員長に就任。陸軍大将の称号を与えられる。

1910年(59歳)日韓併合に伴い、朝鮮総督に就任する。

1916年(65歳)朝鮮総督を辞任。内閣総理大臣に就任する。

1918年(67歳)第一次世界大戦におけるシベリア出兵に伴い、米騒動が勃発。内閣総辞職に追い込まれる。

1919年(68歳)心臓肥大症により、故郷の平井赤十字病院にて死去。

 

青少年期の寺内正毅

1852年、寺内正毅は周防国吉敷郡すおうのくによしきぐん平川村(現・山口県山口市)にて、長州藩士・宇多田正輔の三男として生まれます。

父親と苗字が違っているのは、このあと正毅が母方の親戚・寺内勘右衛門の養子となったためです。

時代は幕末真っ只中、正毅は長州藩士として動乱に身を預けていくこととなります。

奇兵隊・倒幕軍にて頭角を現す

正毅は13歳のころに、高杉晋作奇兵隊に入隊。

ここで銃の扱い方や国学を学び、兵士としての基礎を固めていきます。

1867年には戊辰戦争にも従軍し、倒幕軍として最終局面の函館戦争まで参戦しました。

このあと長州閥の出身者は、長く政府の中核を担っていくわけですが、正毅もそのひとりだったわけですね。

フランス留学を志願

戊辰戦争が終結すると正毅は京都にてフランスの軍学を学び、その影響もあってフランス留学を志願するようになります。

しかしここではそれも叶わず、1872年からは新宿区の陸軍戸山学校に入学することに。

ただ正毅のフランスへの想いは、ここから10年後、彼が31歳のころに報われることとなります。

1882年、正毅は皇族の閑院宮載仁親王かんいんのみやことひとしんのうに随行する形でフランス留学を果たし、約4年間フランス駐在武官を務めるのです。

帰国後は軍の教育に携わることとなるため、彼の学んだフランス式の軍学は日本の陸軍にもしっかりと反映されたのではないでしょうか。

 

軍政・軍教育に従事

寺内正毅の陸軍におけるキャリアは、ざっと以下の通り。

・陸軍大臣官房副長

・参謀本部第一局長

・参謀次官

・陸軍士官学校長

・教育総監

・陸軍大臣

軍政や教育を担う立場がほとんどで、戦地に赴くことはあまりありませんでした。

というのも、正毅は1877年の西南戦争の折、負傷により右手の自由を奪われており、実際の戦闘には参加できない身体となっていたからです。

日清戦争では現地にも赴いていますが、主に兵の衛生や食料の管理、基地の維持など、後方支援の指揮を執っていました。

 

朝鮮総督時代

1910年になると、韓国統監の曾禰荒助そねあらすけが辞任し、それに伴って正毅が韓国統監に列せられます。

このとき、日本が握っていたのはあくまで韓国の外交権だけだったのですが、同年10月に李完用りかんよう首相と、正毅が「韓国併合条約」に調印。

朝鮮半島は日本の保護下に置かれることとなり、正毅は朝鮮総督に就任するのです。

朝鮮総督というのはほとんど首相のようなもので、日本の内閣総理大臣を介し、朝鮮の行政を司っていました。

正毅は次期首相候補として、朝鮮を指揮することでその資質を試されていたといっていいでしょう。

朝鮮では憲兵に警察官を兼任させる「憲兵警察制度」を制定し、国内の治安維持に尽力したことが評価されています。

統治下に置かれれば反日感情を抱く人がいるのも当然で、いつ暴動が起こってもおかしくない状態だったのでしょうね。

 

内閣総理大臣時代

1916年になると、正毅は朝鮮総督を辞任し、内閣総理大臣に就任します。

いよいよ満を持して…という感じですが、正毅は首相としての活躍はいまいちだったんですよね…。

ビリケン宰相の真意

正毅は首相に就任した当時、「ビリケン宰相」というあだ名を付けられていました。

ビリケンは大阪の通天閣にも飾られている幸運の神様。

関西圏以外だと、知らない人も多かったりするのでしょうか?

正毅はこのビリケンさんに顔が似ていたためそう呼ばれるようになったのですが、実はこのあだ名にはもうひとつ意味があります。

それは「非立憲宰相」というもの。

どういうことかというと、正毅は知っての通り、当時の内閣を牛耳っていた長州閥の人間です。

このころの世論では、そういった長州閥主導の政権に疑問が呈され、きちんと国民が選んだ政党による政治が期待されていたのです。

しかし結局首相となったのは長州閥の正毅で、残りの官職まで長州閥で固められてしまう始末。

国民の選んだ政党が、憲法に基づいて政治を行う体制が立憲政治。

それが実現せず、またしても長州閥が権威を独り占めしたため、非立憲ビリケンといわれるようになってしまったのです。

軍備に偏り過ぎた政策で米騒動勃発…

寺内内閣は結果として、政策が軍備に偏り過ぎてしまったため2年で総辞職にいたっています。

軍備に注力するにはまずお金が必要となり、それを担うのは国民の税金。

その政策によって寺内内閣はどんどん国民の反感を買っていくのです。

首相に就任した時期が丁度、第一次世界大戦真っ只中のことだったので、時期が悪かったともいえるのですが…。

最後の引き金となったのは、1918年のシベリア出兵でした。

この前年、ロシア革命によってロシアは社会主義国へと生まれ変わっており、その影響から他国でも革命を目指した暴動が起きては困ると、各国がロシアを押さえ込むことにしたのです。

日本はただでさえ軍備にお金を割いていたのに、このシベリア出兵にさらに大金をつぎ込みます。

これによって国内では、物価の上昇を危惧した米の買い占めが発生。

そして1918年7月、米を買えなくなった主婦層から抗議が起こり、全国1道3府38県、70万人を動員する米騒動が勃発するのです。

正毅は暴動を抑えるために軍隊を出動させ、大量の死傷者を出すことに。

その責任をもって、この年の9月21日、内閣を総辞職することとなるのです。

 

きょうのまとめ

長州藩士として戊辰戦争で活躍し、以降陸軍の中心的存在となり、首相まで上り詰めた寺内正毅。

最後こそ残念な幕切れとなってしまいましたが、これは彼の実力不足というより、時勢が味方しなかった結果かな?と思わされます。

だって朝鮮に関しては見事に統治してみせたわけですからね。

最後に今回のまとめです。

① 寺内正毅は西南戦争で右手の自由を失い、以後戦地に赴くことがなくなった。結果として軍政や軍教育の核を担っていくことに。

② 朝鮮総督として6年間、朝鮮半島を統治。憲兵警察制度を用いて治安の維持に努めた。

③ 「ビリケン宰相」のあだ名には、幸運の神様・ビリケンに似ているという意味と、立憲政治を行わない「非立憲」という皮肉が込められている。

④ 内閣総理大臣に就任するも、政治が軍備に偏ったため国民の反感を買う。1918年にはシベリア出兵の影響で国内の物価が上昇し、米騒動に発展。死傷者を大量に出した責任で内閣総辞職にいたる。

正毅もビリケンさんのように、多くの人から愛される首相となれればよかったのですが…戦時下の政治となると、そう上手くは運ばないものですね。

 
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