アンドレ=マリー・アンペールとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

18世紀~19世紀にかけてフランスで活躍した研究者、

アンドレ=マリー・アンペール

彼は数学に物理学、哲学など、あらゆるジャンルの学問に精通していました。

なかでも電気に関する研究では「アンペールの法則」という功績を遺し、「電気力学」の創始者となっています。

アンドレ=マリー・アンペールとは、一体どのような人物だったのでしょうか。

今回はその生涯について、功績を中心にご紹介していきます。

 

アンドレ=マリー・アンペールはどんな人?

プロフィール
アンペール

André-Marie Ampère (1775-1836)

  • 出身地:フランス リヨン
  • 生年月日:1775年1月22日
  • 死亡年月日:1836年6月10日(享年61歳)
  • フランスの物理学者、数学者。「電気力学」の創始者。

 

アンドレ=マリー・アンペール 年表

年表

西暦(年齢)

1775年(0歳)南フランスの都市リヨンで誕生。生後間もなく一家で近郊の村ポレミューに移住。

1793年(18歳)フランス革命の影響で父親が処刑され、ショックのあまり1年ほど引き籠る。

1794年(19歳)リヨンで数学教師として働き始める。

1799年(24歳)数年に渡る求婚の末、商人の娘と結婚。翌年に長男が誕生。

1803年(28歳)リヨン北方プールカンブレスに単身赴任中、妻が死去。数学論文が評価され、パリへ移住し教師生活。

1805年(30歳)リヨン大学で教授に就任。パリ学士院にも名を連ねる。

1806年(31歳)再婚し娘が誕生するも後に離婚する。

1808年(33歳)視学官として教育行政に関わる。

1814年(39歳)学士院の数学部門会員に選出される。

1820年(45歳)磁性と電気の関係を研究。後の「アンペールの法則」を発見。

1827年(52歳)ロンドン王立協会外国人会員に選出される。

1828年(53歳)スウェーデン王立科学アカデミーで外国人会員に選出される。

1834年(59歳)哲学の著作『科学哲学試論』を出版。

1836年(61歳)マルセイユで死去。

 

アンドレ=マリー・アンペールの生涯

ここからは早速、アンドレ=マリー・アンペールの生涯について、その功績と共に見ていきましょう。

最大の功績

アンドレ=マリー・アンペールの名が世間に知れ渡ったのは、やはり彼の最大の功績と言える「アンペールの法則」のためです。

これは彼が45歳の頃に発表したもので、当時既にリヨン大学で教授職を務めていました。

この法則の誕生した背景には、あるデンマークの科学者による電流の磁気作用に関する発見が関係しています。

「電流の流れる電線近くでは方位磁針が振れる」

というその科学者の発見はフランスの学者たちの間に広まり、アンペールも強い関心を示したのです。

そこで彼は、電気と磁気の一連の関係性について徹底的に研究し、僅か1週間後には「アンペールの法則」を論文で発表しています。

以下でこの法則の内容について見てみましょう。

「アンペールの法則」

アンドレ=マリー・アンペールの発見した法則をまとめるとこのようになります。

・2本の導線を平行に並べ電流を流す
 →導線間に力が働くことを発見

・電流の方向=右ねじの進む方向としたとき 
 →右ねじの回る方向に磁場が発生

これをさらに分かりやすくしたものが「右手の法則」となります。

まずは、右手で「いいね!」のポーズを思い浮かべてみて下さい。

電流の流れる方向と右手の親指を一致させたとき
 → 残りの指たちが曲がる方向に磁場が発生する

といったイメージになるのです。

この法則の発見により、アンドレ=マリー・アンペールは「電気力学」の創始者となりました。

ちなみに電流の単位である「アンペア」は、彼の名前にちなんでつけられたものです。

電流の理論

「アンペールの法則」を発見したアンドレ=マリー・アンペールは、さらに電流についても独自の理論で発表を行っています。

彼によると電流とは、「電気を帯びた無数の微小な粒子が流れている現象」ということです。

その発表は後に「電子」の説明に繋がる重要なものでした。

しかし分子的流体の存在は発表当時の科学界には受け入れられず、60年以上が過ぎて電子が発見されたことで、ようやく注目を浴びるようになったのです。

教育関係

「アンペールの法則」の発表により、電気力学の祖としての認知度が高いアンドレ=マリー・アンペール。

しかし彼は、電流関連の研究者以外にも様々な顔を持っていました。

社会人を始めた当初は数学教師として働き、教員生活を続ける傍らで数学と化学の研究に没頭。

最初に書いた数学論文が評価されたことで、理工科学校で復習を担当する教師としての新たな職を得ました。

その後の論文でも評価を得ると、リヨン大学では教授職に就いています。

さらに研究と並行して視学官という教育行政に関わる仕事にも携わりました。

法則の発見により電流関係の研究者として有名になってからも、

・パリ大学で哲学の講義

・天文学助教授

・実験物理学教授

等、彼の知的好奇心と関心の幅の広さによって、様々な学問分野に関わっていたのです。

特に晩年は哲学研究に没頭し、著作『科学哲学試論』を遺しています。

 

アンドレ=マリー・アンペールにまつわるエピソード

ここでは、アンドレ=マリー・アンペールの人物像にもう少し迫るために、彼のエピソードを2つご紹介していきます。

子供時代

南フランスの都市、リヨンで誕生したアンドレ=マリー・アンペール。

しかし生後間もなくして一家は近郊の村ポレミューに移住します。

少年時代の彼は父親の教育方針により学校には通わず、興味を持ったことを自由に学べる環境で育ちました。

好奇心旺盛であらゆることに興味を示したアンペール少年は、大人になってもその知的好奇心が衰えることはなく、様々な学問分野を研究していくことになるのです。

その思考の根底には、少年時代に愛読した『百科全書』やビュフォンの『自然史』がありました。

私生活の不幸

生涯を通して教育関係の仕事に就き、研究を続けて大きな功績も遺したアンドレ=マリー・アンペール。

しかし彼の私生活は、あまり恵まれたものではありませんでした。

18歳の時に、フランス革命に対して反対を表明した父親が処刑されるという事件が起こり、ショックのあまり約1年の引きこもり生活を送ることに。

24歳の時には数年かけて求婚した相手とめでたく結ばれましたが、5年に満たない結婚生活の末、愛する妻を病で失います

その後に再婚した相手とは、そりが合わずにほどなくして離婚することに。

成人後の息子と娘もそれぞれで不安定な生活を送り、アンペールの心配事は晩年まで耐えませんでした。

 

きょうのまとめ

今回は電気力学の創始者、アンドレ=マリー・アンペールについて、その生涯を功績と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

新たな学びは得られましたか。

最後に、アンドレ=マリー・アンペールとはどのような人物だったのか簡単にまとめると

① 18世紀~19世紀にフランスで活躍した研究者。

② 「アンペールの法則」を発表し、電気力学の創始者となる。

③ 物理学、数学、哲学などあらゆる学問において研究していた。

あらゆる学問分野に精通したアンドレ=マリー・アンペール。

その旺盛な知的好奇心と柔軟な発想力が電流の法則を発見し、新たな学問分野を生み出すことにも繋がりました。

その私生活では確かに不幸が続きましたが、少年時代の父親の教育方針が彼に合っていたことは、何よりも幸いなことだったのかもしれません。

 
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