8世紀・奈良時代において仏教の最高指導者である法王の座に上り詰め、僧侶でありながら政治にも深く関与した
道鏡。
皇室の人間でもない僧侶がここまでの権力をもつことは長い歴史を振り返っても異例なことで、日本史上、とても珍しい出世をしたことで有名な人です。
そしてなにやら、とんでもない巨根だったという俗説も…。
そんな「偉業をなした」というよりは、なんだかヘンテコな理由で取り沙汰されている道鏡…いったい、どんな人だったのでしょう?
今回は彼の生涯を辿ることで、その人物像に迫っていきましょう。
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道鏡はどんな人?
- 出身地:河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)
- 生年月日:700年ごろ
- 死亡年月日:772年5月13日(享年 不明)
- 一介の僧から称徳天皇に気に入られ、仏教の最高権力である法王にまで上り詰めた。天皇になりかけたこともある。
道鏡 年表
西暦(年齢)
700年ごろ(1歳)河内国若江郡(大阪府八尾市)で弓の制作を行っていた弓削氏の子孫として生まれる。法相宗の高僧・義淵の弟子として修業を積む。
761年(?歳)孝謙上皇(称徳天皇)を看病し気に入られる。
763年(?歳)仏教の僧・尼の管理職である小僧都に任命される。
764年(?歳)朝廷の幹部・太政大臣に任命される。
765年(?歳)仏教の最高権力者・法王となり、仏教思想に基づく政治を展開していく。
769年(?歳)自らが天皇になろうと「道鏡事件」を起こすが、朝廷の幹部・和気清麻呂に阻止される。
770年(?歳)称徳天皇が没したことで失墜。下野国(栃木県)に左遷される。
772年(?歳)下野国にて生涯を終える。
道鏡の生涯
若年より高僧・義淵の弟子として修業を積む
道鏡は700年ごろ、河内国若江郡(大阪府八尾市)にて、弓の制作を行っていた弓削氏という一族の子孫として生まれます。
詳細はわかっていませんが、若年より出家しており、法相宗の高僧・義淵の弟子として修業に励んでいたとのこと。
弓職人の息子である道鏡がなぜ出家したのかというと、奈良時代の政治に仏教思想が大きく取り入れられており、一般人が出世するためには僧侶になることが一番の近道だったためです。
朝廷に関係しだすのは何十年もあとの話ですが、若いころから「偉くなりたい!」という野心を抱いていたのですね。
道鏡が仕えた義淵は天武天皇により皇室で育てられ、元正・聖武天皇のもとでもお勤めをした皇室と関わりの深い僧侶。
彼に弟子入りしたのもひょっとすると、晩年の身の振り方を考えてのことだったりして…?
その意気込みも相当なもので、
・禅
・占星術
など、道鏡は多岐に渡るスキルを身につけています。
そして何十年にも渡る努力が報われたのか、760年ごろになってついに平安京に招かれ、宮内の禅師を任されるようになるのです。
孝謙上皇(称徳天皇)に気に入られ一躍権力者の座に…
運命を大きく動かす出来事が起こったのは、761年のことでした。
淳仁天皇に皇位を譲り、隠居していた孝謙上皇が体調を崩し、道鏡がその看病に当たると上皇の体調はみるみる回復。
この一件で道鏡は彼女のお気に入りとなり、763年には上皇の権力によって僧侶たちのまとめ役である小僧都に任命されます。
これが明らかに上皇のひいきによる人事だったため、翌764年には太政大臣の藤原仲麻呂が反旗を翻し、「藤原仲麻呂の乱」に発展。
しかし仲麻呂は淳仁天皇を操り、朝廷での権力をほしいままにしていたこともあり、反感をもつ者が多く、多数の味方をつけた上皇にあっけなく破れます。
これを機に淳仁天皇の皇位も廃した上皇は、自らが称徳天皇として皇位に返り咲き、そして仲麻呂が勤めていた太政大臣に道鏡を任命するのです。
仲麻呂のやり方もこすいですが、称徳天皇のえこひいき人事もまた見事なもの。
この時代の皇室ってかなり荒れてたんですね…。
道鏡の「巨根説」は上皇をたぶらかしたことから
冒頭でも少し触れたように、道鏡には「巨根らしい」という、根も葉もない噂があります。
これは孝謙上皇の道鏡へのえこひいきぶりからくるもので、要するに
「そんなに道鏡好きなの?夜のほうがめちゃくちゃよかったとか…?」
…と、後世の人が妄想したわけです。
江戸時代には
「道鏡が すわるとひざが 三つでき」
という俳句まで詠まれたほど。
江戸時代の俳句ってもっと高尚なイメージがあるんですが…こんなくだらない感じでもよかったんですね…。
法王になり仏教中心の政治を展開
道鏡の出世ぶりは本当に目覚ましく、太政大臣になったかと思えばその翌年の765年には、仏教の最高指導者である法王に任命されます。
最初のほうでも少し触れたように、奈良時代において政治と仏教思想は非常に密接な関係。
つまりこの時代の法王というのは実質政治を司るポジションで、天皇と比べても劣らないぐらいの地位だったのです。
この称号を得た道鏡はいよいよ政治に自らの考えを反映していきます。
彼の行った政策はいかにも仏教中心のもので
・貴族は田畑を作っちゃダメ
・お寺にたくさん寄付を
というもの。
それほどめちゃくちゃな政治でもない気もしますが、どうして貴族が田畑を作るのがダメなのかはちょっと謎…。
「あんたらもう十分金持ってんだから、畑仕事は百姓に譲りなさいよ」
みたいな感じですかね?
…と、ここまでならさして悪い指導者でもなさそうな道鏡ですが、このあとその悪名を広めてしまう珍事件が起きるんです。
天皇の座を狙った?道鏡事件
そう、769年に起こったのが、かの有名な「道鏡事件」。
道鏡は大宰府の長官として勤めていた弟の浄人を使い、
「道鏡を天皇にすれば泰平の世が訪れるって宇佐八幡宮から神託があったよ!」
と朝廷に伝えさせるのです。
しかし、実の弟が伝えに来たあたり、いかにも怪しい…ということで、朝廷は宇佐八幡宮に遣いを出すことにします。
結局、遣いに出された和気清麻呂によって神託が偽物だったことが暴かれ、道鏡の企ては失敗に終わったのですが…。
これ、清麻呂が嘘をついた可能性もあって、実は道鏡が本当に嘘をついていたかどうかは、未だに謎のままなんですよね。
称徳天皇の崩御でついに失墜
そんなこんなで、すっかり朝廷での信用を失ってしまった道鏡。
その翌年、770年には称徳天皇が没したことで彼は完全に失墜し、平城京から下野国(栃木県)へと左遷されてしまいます。
それから2年後に道鏡は没していますが、法王という地位ももはや過去の話で、埋葬は普通に一般人として行われたのだとか。
せっかく国のトップまで上り詰めたのに、一度の失敗でそこまで変わってしまうものなんですね…。
ちなみに晩年の称徳天皇は道鏡と共に彼の故郷である河内国を訪れ、
「ここを西の京と名付ける!」
なんて言って、都をもうひとつ作ろうとしています。
ほんと、どんだけ道鏡好きなんだ…。
きょうのまとめ
道鏡の破竹の勢いの出世劇は、いかにも”天皇を手玉に取った”という風に見られがちですが、そもそもこの時代の朝廷の荒れ具合を見ると、正直誰が悪いともいえないような気がしてきます…。
称徳天皇もめちゃくちゃだし、敵対した藤原仲麻呂だってやりたい放題で周囲に嫌われていたわけですから。
ただやっぱり最後の最後に「偽の神託で天皇になろうとした」という事実がなんだかマヌケで、悪人のインパクトを強くしてしまったのでしょうね。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 道鏡は若いころから「偉くなりたい!」という野心のもと修行に勤しんでいた
② 孝謙上皇(称徳天皇)の看病で気に入られると、その地位を数年で法王まで高めていった
③ 道鏡事件で偽の神託がバレ、さらに称徳天皇が亡くなったことで完全に失墜する
一般人から国のトップまで成り上がり、最期はまた一般人に…。
まるでジェットコースターのような人生ですね。
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