柳生十兵衛。
眼帯を着けた隻眼の剣豪というイメージがかっこよく、現代でもマンガや映画など、多数の創作がありますよね。
もちろん彼は実在した人物で、後世の創作が多岐に渡っているのは、謎の多いその素性に憧れる人がたくさんいたから。
そういわれると具体的にどんな人物で、実際は何をした人なのか…非常に気になるところです。
今回はそんな柳生十兵衛の生涯を辿り、彼の人物像に迫ります。
ロマンあふれるその生き様に、多くの伝説が生まれたことも納得させられますよ。
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柳生十兵衛はどんな人?
- 出身地:大和国柳生庄(現在の奈良県柳生町)
- 生年月日:1607年
- 死亡年月日:1650年4月21日(享年44歳)
- 三代将軍・徳川家光に仕えた剣豪。長きに渡る修行期間に謎が多く、後世に多くの創作が生まれた
柳生十兵衛 年表
西暦(年齢)
1607年(1歳)大和国柳生庄(現在の奈良県柳生町)にて、二代将軍・徳川秀忠の兵法指南役・柳生藩初代藩主の父・宗矩の長男として生まれる。
1616年(10歳)宗矩に連れられ秀忠に謁見。
1619年(13歳)のちの三代将軍・徳川家光の小姓(世話係)となる。
1621年(15歳)宗矩が家光の兵法指南役になる。このとき共に剣術指導を受け、家光の稽古役も務めた。
1626年(20歳)なんらかの理由で家光の怒りを買い、蟄居(謹慎処分)を命じられる。
1626~1637(20~31歳)故郷の柳生庄へ戻り、剣術の研究と修行に打ち込む。各地へおもむき武者修行や山賊退治をしていたとする説も。
1637年(31歳)11年ぶりに江戸へ戻り、宗矩から剣術指南を受けると、これをまとめた伝書を記す。
1638年(32歳)再び家光に仕え、江戸城御書院番(将軍直属の親衛隊)を任される。
1639年(33歳)家光の御前にて、宗矩の弟子・木村友重と、弟・宗冬とともに兵法を披露。
1642年(36歳)12年間で収集した情報をもとに、父や祖父の流派である柳生新陰流の技術をまとめた『月之抄』を残す。
1646年(40歳)宗矩が亡くなり、8300石の領土と家督を相続。
1650年(44歳)弓淵(現在の京都府相楽群南山城村)へ鷹狩りに出かけた際、謎の急死。
柳生十兵衛の生涯
1607年、柳生十兵衛は大和国柳生庄(現在の奈良県柳生町)にて、二代将軍・徳川秀忠の兵法指南役で、のちに柳生藩藩主となる父・宗矩の長男として生まれます。
要は国のトップの指南役の長男なわけですから、まさにサラブレッドという感じですね。
本名は三巌といい、十兵衛は通称…こちらのほうが覚えやすいため、一般的になっているのでしょう。
将軍・徳川家光と共に育った幼少期
父親が将軍御用達の剣豪ということで、長男である十兵衛も幼少より恵まれた環境で育つことになります。
10歳のころに宗矩の息子として徳川秀忠に紹介されます。
3年後には秀忠の嫡男でのちの将軍となる家光の小姓(世話係)を務めることに。
家光は十兵衛より3歳年上で年齢も近かったため、話相手にも丁度よく、世話係といえ兄弟のような関係だったことが伺えます。
じきに家光が宗矩から剣術を習うようになってからは、その稽古相手にもなりました。
将軍と生活を共にし、将軍と共に成長する
いかにも幼少期のこのことが十兵衛の価値を高めたかに思えますが、彼の生き様において後世に影響を与えたのは、このあとです。
11年の謹慎・修行の日々
1626年、理由ははっきりわかっていませんが、十兵衛は家光の怒りに触れ、蟄居(謹慎処分)を言い渡されたことをきっかけに、江戸から故郷の柳生庄へ戻ります。
そこから11年間、十兵衛が江戸へ戻ることはありませんでした。
彼はこの間、剣術の修行に明け暮れたのだとか。
とはいえ家光が言い渡した謹慎処分は1年ほどで許しが出ていたという話で、江戸へ戻るまで11年もかかったのは自ら壮絶な修行に身を落としていったからだとされ、これが後世の想像をかき立てる部分になっています。
十兵衛が具体的にどんなことをしていたかというと…
・祖父や父の教えを研究
・柳生新陰流の門人を訪ねたりしながら、体得に没頭
・各地の道場を訪ねて武者修行の旅
・山賊討伐
というのが一般的にいわれていること。
特に新陰流の研究については、容易には体得できず、思い悩んでいた様子が自著の『月之抄』にも記されています。
また山賊討伐では数十人の敵を相手にしたなどの逸話も。
そこまでの強さをもちながら実力に納得できなかったその姿は、たしかに物語の主人公としては適任…
いかにも最強を求める男っぽくてロマンがあります。
というかそんな漫画みたいな話、本当にあるんですね。
身分を隠して忍者になっていたという説も…?
十兵衛の謹慎期間があまりにも長いことから、宗矩の指示で隠密…つまり忍者になっていたという推測もあります。
たしかに表向きは謹慎中としておけばスパイとしては動きやすくなりますし、あながちあり得ない話ではないでしょう。
忍者として描かれている作品があるのはこの説からですね。
家光に再び仕え直属の親衛隊・柳生藩藩主に
11年の修行期間を終えた十兵衛は1637年になると江戸へ戻り、1年間、宗矩の指導を仰いだ末、1638年に再び家光の配下として仕えることになります。
その役回りは御書院番といい、将軍直属の親衛隊。
剣士としてはこの上ない肩書きです。
その後1642年には、先祖の代から100年以上の歴史を誇る新陰流の技法をまとめた集大成、『月之抄』を残し、いよいよ剣士として成熟の時期を迎えていきます。
また1646年には宗矩が亡くなり、柳生藩の藩主も正式に受け継ぐことに。
あまりイメージにはありませんが、十兵衛は本来荒くれ者で、宗矩は跡取りとしては難色を示す部分もあったのだとか。
酒には特にだらしないという逸話もあり、家光に蟄居を言い渡されたのはそれが原因という説もあります。
しかし藩主を受け継いだあとは寛容になり、任期の間は最下級の使用人にも温厚に接していたとのこと。
藩主として自覚が芽生えたというよりは、これも修行期間に思い悩んだ賜物のように感じますね。
鷹狩りに出かけた先で謎の急死
藩主としてはまだまだこれからだったのですが、
1650年4月21日、弓淵(現在の京都府相楽南山城村)に鷹狩りに出かけた十兵衛は原因不明の急死。
外傷なども特になく、その死因は結局わからずじまい。
死に様までミステリアスで、それもまた妄想をかき立てます。
ようやく自身の剣術に納得がいったところでお迎えがきた…とか?
隻眼ではなかった?
最後にちょっと残念な話をすると、十兵衛は実のところ隻眼ではなく、ちゃんと両目が見えていた可能性が高いです。
彼が隻眼だという根拠は
・稽古の際に宗矩が手元を狂わせ、木刀が目に当たってしまった
などの逸話が後世に残されているからです。
しかし実はこれはあくまで他人が書いたもので、本人の著述のなかには隻眼である旨を記したものはひとつもありません。
また肖像画にしてもちゃんと両目が揃った姿で描かれているため、隻眼とする説は後世の創作の可能性が高いとされているのです。
まあ実際、片目しか見えていないと相手との距離感も取りづらいですし、剣士としては圧倒的に不利ですよね…。
もっともそれもイメージでいうと「目で見て戦っているのではない!」みたいになるのでしょうが。
きょうのまとめ
柳生十兵衛は生まれにしても十分に達人になり得る環境を与えられていましたが、その実力を決定づけたのはやはり、柳生庄に戻っていた11年の修行期間です。
そういった意味では将軍のもとを離れ、職を失ったからこそ、剣豪・柳生十兵衛は完成されたといえます。
運命とは不思議なものですね。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 柳生十兵衛は将軍御用達の剣豪の息子として生まれ、幼少は徳川家光と兄弟のようにして育った
② 家光の怒りに触れ謹慎処分を受けてからは11年間、剣術の研究に明け暮れた
③ 晩年は将軍直属の親衛隊として復帰。新陰流の集大成『月之抄』も残し、剣士としていよいよ極まっていく
十兵衛のようにひとつのことに10年…いや、それ以上打ち込める気概があれば、自分だって大成できるかもしれない。
困難な道ながら、やはり男心をくすぐられる生き様です!
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