蕭何とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

紀元前3世紀末~2世紀初期にかけて、皇帝となった劉邦りゅうほうを支え、

前漢成立の立役者となった蕭何しょうか

戦乱の世にあった古代中国というと、先陣を切って戦う武将に注目が集まりがちですが、蕭何は戦場に立たずとも、そういった武将たち以上の評価を得ている人物です。

彼の優れていた点は、丞相じょうしょう(大臣)としての内政能力や、後に権力者となる逸材を見抜ける審美眼にありました。

戦う力はなくとも、戦況を有利局面へ運ぶ達人だったわけです。

まさに影の皇帝とも呼べる蕭何…彼が一体どんな人物だったのか、その生涯から垣間見ていくことにしましょう。

 

蕭何はどんな人?

プロフィール
蕭何

蕭何
出典:Wikipedia

  • 出身地:泗水郡沛県しすいぐんはいけん(現在の江蘇省徐州市こうそしょうじょしゅうし
  • 生年月日:不明
  • 死亡年月日:紀元前193年(享年 不明)
  • 秦末期から前漢初期に活躍した政治家。優れた内政能力で劉邦を皇帝へと導いた立役者

 

蕭何 年表

年表

西暦

前209年 沛県の役人として、真摯な仕事ぶりで民衆から信頼を集める。ゴロツキだった劉邦を秦の反乱軍の首領に推すなど、当時から才能を見抜いていた。

前206年 劉邦の軍が項羽こううらと共に都を陥落させ、秦は滅亡。これを経て劉邦が漢王になると、蕭何は軍を支えた功績から丞相に任命される。

前202年 楚漢戦争そかんせんそうに漢が勝利し、劉邦が皇帝となる。蕭何は優れた内政で食料や兵力を送った功績により、戦功第一の勲章を与えられる。

前196年 劉邦の臣下では無類の強さを誇った韓信かんしんの謀反をくじく。この功績によって臣下として最高位の相国の地位に任命される。

前195年頃 韓信の謀反によって臣下への信用を失った劉邦は、蕭何にもその目を向ける。蕭何は無抵抗の意志を示すため、わざとその地位を落とし、権力を手放していく。

前193年 劉邦の後を追うようにその生涯を終える。

 

人並外れた政治手腕

劉邦をリーダーに

蕭何は劉邦と同じ沛県の出身で、漢の丞相になるまでは県の役人を務めていました。

当時中国は秦の支配下にあり、その圧政が猛威を奮っていましたが、蕭何は民に負担がいかないようにと配慮していたため、市民から大層慕われていたといいます。

そんな折、秦の始皇帝が死没したのをきっかけに、各地で秦に対する反乱が起こりました。

このとき蕭何は沛県を率いる反乱軍の首領に劉邦を推します。

当時の劉邦をリーダーに仕立て上げられたのは、まさに蕭何の徳の成せる技といえるでしょう。

なにせ劉邦は妻子もちの身であるにもかかわらず、ろくに仕事もしないような、いわゆるゴロツキだったからです。

沛県の人たちも「劉邦はだらしない男だけど、蕭何がそこまでいうなら…」といった感じだったのではないでしょうか。

戦場に立った者を差し置いて戦功第一の勲章を得る

やがて劉邦は軍を率いて、項羽と協力して秦を滅ぼします。

しかしこのとき、特に強大な勢力を誇っていた項羽に、秦が拠点にしていた都は奪われ、劉邦は漢中という田舎の土地の王になることに。

戦を行うにしても不利な土地に追いやられた劉邦でしたが、この後に訪れる項羽との楚漢戦争には、見事勝利してみせます。

この不利対面をひっくり返したのは、何を置いても丞相に任命された蕭何の政治手腕でした。

彼は安定した食料と兵力を戦地へと送り続け、劉邦の軍を支え続けたのです。

通常は食料や兵力を補充し続けるためには、民衆への負担を避けられません。

しかしこのときも蕭何は、役人時代と同じように、民衆へ負担がいかない形で、資源を調達することに努めていたのです。

結果民衆から反発が起きることもなく、兵力が尽きることもなく…劉邦軍は徐々に疲弊していった項羽の軍に勝利しました。

何千年前のこととあって詳細に知ることはできませんが、蕭何は一体どんなカラクリを使ったというのでしょう…。

この活躍により彼は、戦場におもむいた者を差し置いて、戦に一番貢献した人物の勲章である戦功第一の称号を得るのです。

国の勢力を広げることと、民衆の信頼感をここまで両立できた政治家というのは、長い世界史を辿ってもそうお目にかかれるものではありません。

 

見極めた才能は劉邦だけじゃない

ゴロツキだった劉邦が後に皇帝となったこともさることながら、蕭何の審美眼は劉邦を見初めたことだけに留まりません。

劉邦が中国統一に成功したことに、欠かせないもう一人の人物、韓信の活躍は蕭何の後押しによるものだったのです。

韓信は楚漢戦争の際も、劉邦が項羽と戦を交えている間に北方の大部分を短期間で制覇。

楚漢戦争の決着の際も、項羽を直接討ったのは韓信でした。

まさに戦においては右に出る者がいないほどの強さを誇った韓信ですが、

実は劉邦の軍にやってきた当初、彼はなんの経歴もない、下積みの兵の一人に過ぎなかったのです。

蕭何はそんな韓信の才能をいち早く見抜き、軍を率いる大将軍に推薦しました。

一度韓信が劉邦の元を離れようとした際にも、

「もしそなたが大将軍の座に認められないのであれば、私も劉邦の元を去ろう」

とまで口にし、韓信を説得したといいます。

優れた内政といい、韓信を大将軍にしたことといい、楚漢戦争における蕭何の功績は計り知れませんね。

 

劉邦への高い忠誠心

蕭何や韓信のような優れた人物が身の周りにいたからでしょうか…皇帝となった劉邦は家臣への不信感を強めていきます。

特に民衆から慕われている蕭何は、その権力を使っていつ裏切るかわからないなどと、疑いをかけられる始末…。

たしかに敵に回せば怖い相手に違いはありませんが、そもそも劉邦は蕭何のおかげで皇帝になれたのですから、これは恩を仇で返すような話です。

しかし蕭何はそんな劉邦に腹を立てることもなく、事あるごとに身を削って忠誠心を示しています。

戦となれば親族を戦場へおもむかせ、韓信が自身の不遇を理由に劉邦への謀反を図ったときは、彼を暗殺することでそれを阻止しました。

挙句の果てには、田畑の不正取引を行うなど、悪事を働くことで自身から権力を手放して、劉邦に対して反抗の意志がないことを示そうとします。

一度は投獄されるまでに身を落としたといいますから、その墜落ぶりは相当なものです。

蕭何は「一度決めたら生涯仕える」というような、律儀な心意気をもっていたのでしょうか?

それとも蕭何の内政もまた、劉邦の力なくして成り立たないものだったのか…いずれにしてもその忠誠心には頭の下がるものがありますね。

 

きょうのまとめ

劉邦が皇帝の座を手に入れるための要素は多数あっても、そのほとんどは蕭何の根回しから始まっています。

中国を統一してみせた劉邦でも、戦場で大暴れした韓信でもなく、当時の中国で隋一の実力を秘めていたのは、蕭何だったのではないでしょうか。

能ある鷹は爪を隠すといいますから、リーダーよりもそれを支える人物のほうが優れているということは、意外に多いことなのかもしれません。

最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。

① 蕭何は安定した物資調達、民衆に負担がいかない内政で劉邦を皇帝へと導いた

② 楚漢戦争の際、多くの土地を制圧し、大将の項羽を討つ功績を果たした韓信を見初めたのも蕭何

③ 劉邦が自身を疑い出した際、親族を戦地に送る、権力を手放すなど、自分の身を削ることで忠誠心を示そうとした

蕭何が現代に生まれて政治を行っていたら、一体どんな政策を展開してくれるのでしょう。

彼は何千年前の偉人ですが、現代人が思いつかないような名案を提示してくれるかもしれませんね。

 

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