徳川家康とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

1600年関ヶ原の戦いで、

石田三成の西軍を破り事実上天下をとった

徳川家康

その後260年以上も続くことになる江戸幕府を開いたことで有名です。

簡単なエピソードを交えながらみていきましょう。

 

徳川家康はどんな人

プロフィール
  • 出身地:三河国(現在の愛知県)
  • 生年月日:1542年
  • 死亡年月日:1616年月日(享年75歳)
  • 三河国(現在の愛知県)の大名だったが、織田信長と同盟を組んで力をつけ関ヶ原の戦いに勝利した後、1603年に江戸に幕府を開いた

 

年表

年表

西暦(年齢)

1542年(0歳)三河国で誕生。幼名は竹千代。

1548年(6歳)今川の人質に出されるが、途中織田に捕まる。

1550年(8歳)今川の人質となる。

1555年(13歳)元服。松平元康と名乗る。

1557年(15歳)瀬名姫(築山殿)と結婚。

1560年(18歳)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、人質生活を脱する。

1562年(20歳)織田信長と同盟を結ぶ。

1563年(21歳)元康から家康に改名。

1566年(24歳)三河国を統一。松平から徳川へ改名。

1582年(40歳)武田家滅亡 同時に本能寺の変で信長死去。

1586年(44歳)小牧・長久手の戦いで争っていた豊臣秀吉の家来になる。

1590年(48歳)秀吉天下統一を果たす。家康は関東地方を恩賞にもらう。

1598年(56歳)五大老になり、秀吉亡き後秀頼の後見となる。

1600年(58歳)関ヶ原の戦いで勝利。

1603年(61歳)江戸幕府を開く。

1615年(74歳)大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす。

1616年(75歳)駿府城において死去。

 

徳川家康の生涯

徳川家康は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将で、
長い戦国の時代を終わらせ江戸幕府を開きました。

そこで最初の征夷大将軍となった人です。
幼い頃から人質として織田や今川の元に送られ、
不遇の時代を過ごしてきた苦労人です。

そんな家康はある時は織田信長に従い、
ある時は豊臣秀吉に服従します。

その時々の権力者の下で配下として我慢強く生き延びていきました。

その結果ついに豊臣秀吉の死後、
天下を取ることができたのです。

まさに忍耐強さが実ったと言えるでしょう。

江戸幕府を開いて、
264年も続く天下泰平な時代へと導いた徳川家康。

その死後も東照大権現と神格化され、
日光東照宮は今も人気の観光名所となっています。

 

徳川家康の伝説やエピソード

徳川家康の拠点

徳川家康にはいろんな謎があります。

家康は三河国(愛知県)で生まれますが、

生涯を通して
駿府城(静岡県)にいることが多かったようです。

江戸に立派な江戸城を築いても、
最後は駿府城で過ごしています。

 

関連記事 >>>> 「徳川家康の拠点となった城は主に静岡だった」

 

徳川家康の死因

そしてその駿府城で
息をひきとります。

死因がなんと
天ぷらの食べ過ぎと言われているのです。

しかし、天ぷらで死んだ人がいるでしょうか?

一説では大坂夏の陣で、
「真田幸村が家康の本陣を襲った際に討たれていた」
のではないかと言われています。

家康が討たれたとなれば、
始まったばかりの江戸の政治は混乱してしまうでしょう。

それを防ぐために、
家康の身代わりとして、
小笠原秀政が身代わりを務めたという話もあります。

事実、大阪の堺市にある南宗寺には
家康の墓とされるものがあるとのことで、

あながち嘘ではないのかもしれませんね。

 

関連記事 >>>> 「徳川家康の死因は天ぷらにあり?真田幸村との関わりは?」

 

徳川家康の墓

徳川家康の墓といえば、

史実では遺体は久能山に、魂は日光にあるそうです。

久能山から西日本に睨みを利かせ、

日光から関東方面を見守るという決意の家康の遺言でした。

 

関連記事 >>>> 「徳川家康の墓は日光なのか?それとも別の場所にあるのか」

 

徳川家康の性格

徳川家康の性格として最もイメージされているのが、忍耐強さです。

人質生活の時も、織田政権下でも、

また豊臣の天下の時代でも忍耐強くその務めを果たしてきたのです。

その他にも倹約家であったり、

家臣を大切にするという面もあったようです。

 

関連記事 >>>> 「徳川家康の性格は?簡単なエピソードとともにご紹介」

 

徳川家家系図

そんな家康の跡を継いだのが、
秀忠でしたが、彼は嫡男ではありませんでした。

嫡男の松平信康は、
武田家と密通しているという罪で、
母の築山殿とともに処罰されています。

家康はどのような気持ちで
嫡男と正室を見送ったのでしょう。

信長の命令であっても本心は守ってやりたかったのではないでしょうか。

ここでもまた一つの説があります。

家康はこのずっと前に亡くなっており、
世良田二郎三郎元信と言う者が家康となっていたというのです。

だから嫡男である信康は、
世良田二郎三郎元信の実子ではなかったため、

むしろ信長の言うとおり切腹させておけば、
自分の本当の子供が跡を継ぐことができ都合がよかったと言う説なのです。

戦国大名につきものの影武者説ですが、
このことはかなり知られているようです。

秀忠以降15代目の慶喜まで徳川家は続きます。

徳川家の家系図には、
どのように徳川の血が受け継がれていったのかがよく現れています。

260年以上に及ぶ天下泰平。

徳川家の様々なドラマがそこにはあります。

 

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きょうのまとめ

徳川家康が天下を取れたのは、

やはり時の運と彼自身の忍耐力があったからではないでしょうか。

そして天下を取ってからも、決して安心せず、

自分の死後は魂となって見守るといったほど徳川家を大切に思っていました。

武器を持ち争う日々から、天下に泰平の日々をもたらせてくれた徳川家康は、

やはり名君であったと言えるでしょう。

 










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