天武天皇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

天武天皇てんむてんのうと聞いて何を思い浮かべますか。

天武天皇は天智天皇(中大兄皇子)の弟にあたる人物です。

もしかしたら天智天皇に比べて印象が薄いかもしれません。

しかし実際には天武天皇も天智天皇に負けず劣らず日本の歴史上、重要な人物です。

天武天皇は一体どんな人物だったのか、今回は天武天皇についてご紹介します。

 

天武天皇はどんな人?

プロフィール
天武天皇

『集古十種』「天武帝御影」
出典:Wikipedia

  • 出身地:飛鳥(現在の奈良県高市郡)
  • 生年月日:630年ごろ
  • 死亡年月日:686年10月1日(享年??歳)
  • 第40代天皇。天皇中心の中央集権国家、律令国家を目指して政治を行った。

 

天武天皇 年表

年表

西暦(年齢)

630??年(1歳)
  飛鳥に生まれる

645年(??歳)
  乙巳の変(いっしのへん)が起こる。

646年(??歳)
  「改新の詔(みことのり)」の発布

663年(??歳)
  倭が白村江(はくすきのえ)の戦いに参戦し敗北する。

672年(??歳)
  壬申の乱にて大友皇子を滅ぼす。

673年(??歳)
  天皇に即位

679年(??歳)
  吉野の盟約を行う

681年(??歳)
  飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定の詔を発布

684年(??歳)
  八色の姓(やくさのかばね)の制定

686年(??歳)
  死去

 

天武天皇の生涯

天武天皇の出生

天武天皇は舒明天皇じょめいてんのう皇極天皇こうぎょくてんのうの第2皇子として生まれました。

兄に中大兄皇子(天智天皇)がいます。

天武天皇に即位するまでは大海人皇子おおあまのおうじと呼ばれていました。

中大兄皇子の政治を助ける

645年、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀り、蘇我入鹿を殺害した乙巳の変が起こります。

乙巳の変は大海人皇子にとっても転機になる事件でした。

その後、大海人皇子は中大兄皇子の「大化の改新」を助けます。

兄弟で協力して、

天皇中心の中央集権国家律令国家を目指して政策をすすめました。

中大兄皇子が天智天皇として即位した頃は

大海人皇子は「大皇弟」と呼ばれ、天智天皇の後を継ぐはずでした。

しかし、次第に天智天皇は息子の大友皇子に皇位を譲りたいと思うようになります。

すると次第に天智天皇と大海人皇子の関係は悪化

大海人皇子は政治の要職から外されるようになりました。

ついに命に危険を感じた大海人皇子は吉野に逃れます

壬申の乱

671年天智天皇が亡くなると、大海人皇子(天武天皇)は吉野で挙兵します。

672年に飛鳥に攻め入り大友皇子に攻め入り、大友皇子を自害に追い込みました。

これを壬申の乱と呼びます。

翌年の673年、壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位します。

天智天皇の政治を引き継ぐ

天武天皇は、天智天皇の政治路線を引き継ぎ、天皇中心の中央集権国家、律令国家を目指します。

天皇中心の中央集権国家のため、

・天皇の実権を強めるために、大臣を置かない

・天皇自ら政治の指揮をとり、皇族を要職に就ける「皇親政治」

・新しい身分制度「八色やくさかばね」をつくり、氏族(豪族)を朝廷の支配下に

などを行います。

政策の代表的なものとしては

・飛鳥浄御原令の制定

・藤原京の建設

・「古事記」「日本書紀」の編纂

などがあります。

飛鳥浄御原令は「日本ではじめての体系的な法典」といわれています。

土地制度や戸籍制度が組み込まれました。

また、それまで都は天皇が変わるたびに造りなおされていましたが天武天皇は何代にも渡って使われる本格的な首都を作ろうと、中国の都市を参考に藤原京の建設を行いました。

しかし天武天皇はこれらの政策が完成する前に亡くなります。

その後は鸕野讚良皇后うののさららこうごうが持統天皇として即位し引き継ぐことになりました。

 

 

天武天皇にまつわるエピソードや伝説

持統天皇への愛の証?薬師寺

天武天皇の即位後、鸕野讚良皇后は重い病気に罹りました。

680年、天武天皇は皇后の病気の平癒を願い、

薬師寺建立の発願百人の僧を出家させました。

そのかいあってか、鸕野讚良皇后の病気は回復しました。

しかしその後に天武天皇が床に臥すようになり

薬師寺の完成を待たずに亡くなります。

薬師寺は持統天皇を経て文武天皇の代に完成しました。

薬師寺は藤原京(奈良県橿原市)に建立されましが、平城京遷都の際に移転し現在は奈良県奈良市にあります。

吉野の盟約

679年 天武天皇は6人の皇子を連れて吉野へ行きます。

鸕野讚良皇后も同行しました。

次期天皇に鸕野讚良皇后との皇子である草壁皇子くさかべのおうじを示すと

同時に皇位継承を巡って争わず、力を合わせて政治を行うように皇子達に誓わせました。

その後、天武天皇は皇子達を抱擁しました。

この出来事を「吉野の盟約」といいます。

しかし天武天皇の死後、吉野の盟約もむなしく、草壁皇子の即位に不満を抱いた大津皇子(おおつのおうじ)が謀反を計画。

処刑される事件が起こります。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

天武天皇についていかがでしたでしょうか。

天武天皇とは?簡単にまとめると

① 舒明天皇と皇極天皇の第二皇子

② 兄の天智天皇(中大兄皇子)と協力して大化の改新を進めた

③ 天皇中心の中央集権国家、律令国家を目指した

と言えるのではないでしょうか。

多くの政策の完成を前に亡くなってしまいましたが、

皇后である鸕野讚良皇后が

持統天皇として即位し天武天皇の意思を引き継ぎました。

 
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2 件のコメント

  • [天智天皇の政治を引き継ぐ]の欄の
    日本書記→日本書紀の訂正をお願いします

  • ご指摘ありがとうございます!
    大変助かります。

    訂正させて頂きました。

  • 名無し へ返信する コメントをキャンセル

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