南北朝時代、南朝方の主力として活躍した北畠顕家(きたばたけあきいえ)。
年齢は20以下、しかも、公家出身というのに、その強さは、なみいる大人の武将たちを圧倒します。
しかし、歴史とは皮肉なものです。
それだけの強さでありながら、時に恵まれず、やがてすり減り、戦場でその若い命を散らします。
「花将軍」とあだなされる男の壮絶な最後とはいったいどんなものだったのでしょう。
北畠顕家の二度目の上洛開始

圧倒的強さを見せつけて足利尊氏を破った北畠顕家。
しかし、その年の暮れには早くも後醍醐天皇から再救援を求める手紙が届きます。
これを受けて、北畠顕家は軍勢を集めて南下を開始。
関東にて反抗する諸豪族を破り、鎌倉をふたたび占領しました。
この時、顕家の勢いを見て、近くからたくさん「味方に」と集まってきます。
顕家は彼らと合流して、京を目指します。
ところが、あんまり味方がぶくれあがりすぎたのでしょうか。
それとも、二年続けての大遠征に、持ってくる食料がそもそも不足していたのでしょうか。
『太平記』によると、顕家の軍は略奪をしながら行軍。
その通り過ぎた後には草木も生えなかったと記されます。
青野原の戦い
これに対し、足利方は北畠顕家がいなくなったのをいいことに鎌倉を奪い返します。
そして、京にひかえる足利方本軍とのコンビネーションで北畠勢を挟み撃ちにすべく、西へと追いかけます。
顕家はこの動きを見て
「まず背後からせまる敵をたたこう」
と決意します。
岐阜県の青野原で、両軍は激突し、北畠方が勝利しました。
北畠顕家、伊勢に進む
しかし、北畠勢もこの戦いで消耗し、このまま京に攻め込むほどの余力はありません。
そこで、ここが歴史上の不思議とされているのですが、顕家は越前(今の福井県東北部)の新田義貞と合流する選択を取らず、伊勢(今の三重県の大部分)の方へと進むます。
ここの理由については正確な資料が見つかっていません。
新田義貞とのパートナーシップがうまくとれていなかったのか、それとも何かの作戦なのか、わかりません。
北畠顕家、近畿での戦い
その後、北畠顕家は大和(今の奈良県)を占領しますが、桃井直常(もものいただつね)の軍に大敗します。
何とか立て直し、転戦するも勝ったり負けたり。
やはり東北から付き従う精鋭の家来や馬が少なくなってくると厳しいのでしょうか。
それとも、連戦の苦しさか。
やはり、あの略奪というのが尾を引いているのでしょうか。
そして、顕家は後醍醐天皇に対して、こんな書状を送っております。
顕家諫奏文
1. すぐに良い人を選んで、九州・東北にやってください。さらに山陽・北陸にも同じようにして反乱に備えてください。
2. 3年間租税を免除し、節約してください。土木工事とぜいたくをやめれば、反乱はおのずとなくなります。
3. 人の登用は慎重にしてください。功績があるのに身分が低い者には土地を与えるべきで、身分をあたえてはいけません。
4. 恩賞は公平にしてください。
5. 行幸(天皇の外出)や宴会はひかえめにしてください(お金がかかるから)。
6. 法令は厳しく実行してください。決めたことをすぐコロコロ変えるのはよくありません。
7. 政治に有害無益な者を近づけてはいけません。
「いくら敵をやっつけても、後醍醐天皇の政治自体がちゃんとしていないと、それに不満を持った敵がどんどん現れてしまいます。」
ということをついに素直に白状してしまっております。
ものすごい悲壮感すらただよいます。
北畠顕家の最後

その7日後、足利方の高師直(こうのもろなお)が大軍を率いて攻めてくると、両軍は堺浦で激突。
しかし、敵は大勢であり、味方は度重なる戦いにつかれきっております。
しかも、足利方についた瀬戸内水軍からの攻撃もあり、味方の援軍も到着しません。
北畠勢はついに敗走。
石津で包囲され、顕家は決死の戦いに挑みますが、落馬し討ち取られました。
きょうのまとめ
① 北畠顕家は二度目の上洛における鎌倉からの行軍で略奪をおこなった
② 北畠顕家は二度目の上洛の近畿に入ってからはかつての勢いもかげり、苦しんだ
③ 北畠顕家は後醍醐天皇に失政をいさめる諫奏文を送り、その7日後戦死した
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