井伊直弼とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

井伊直弼といえば、

幕末期、独断専行で政治を進めた人物とお思いになられる方が多いのでは?

そのような人にかぎって意外な一面があったりしますね。

本当はどんな人であったのか見ていきたいと思います。

 

井伊直弼はどんな人?

  • 出身地: 近江国彦根藩(現在の滋賀県彦根市)
  • 生年月日: 1815年11月29日
  • 死亡年月日: 1860年3月24日(享年 46歳)
  • 幕末期の江戸幕府大老。桜田門外の変で暗殺。

 

井伊直弼 年表

西暦(年齢)

1815年(1歳)近江国彦根藩に生まれる。(幼名、鉄之介。後に鉄三郎と改名)

1819年(5歳)母・富 死去。

1831年(16歳)父・井伊直中 死去。

1832年(17歳)元服(父の喪に服していたため、遅い元服となる。)。

1834年(19歳)弟とともに養子候補として江戸へ。

1846年(32歳)兄・直元の急死により彦根藩第12代藩主直亮の世子となる。

1858年(44歳)大老に就任。日米修好通商条約調印。安政の大獄(〜59)。

1860年(46歳)桜田門外の変。暗殺。

 

井伊直弼の生涯

井伊直弼というと、
大老という最高職に上り詰めた強運な人と思ってしまいますが、

少年時代に両親を亡くし、
養子候補となるも採用されず悔しい思いをしました。

そのような状況下、
学問、武芸の修養につとめました。

前向きな努力家です。

茶道、和歌、禅に関しては造詣が深く、
武道の面では居合道を究めていました。

そのおかげで、
ぶれることなく難しい政治情勢を乗り切ることができたのでしょう。

日米修好通商条約調印、
安政の大獄については無理矢理感がかなりありますが、

一応、混乱を回避できました。

結果、暗殺という悲劇に見舞われてしまいましたが、
それも覚悟の上だったわけです。

肝が据わっていますね。

そういう人でないと大老職は務まらなかったでしょうね。

直弼は時代に呼ばれたと言えるのではないでしょうか。

存命中も死後も混乱の中にいた直弼。

直弼の登場により、

新しい時代の扉を開くきっかけとなったといえるでしょう。

[関連記事: 井伊直弼といえば、桜田門外の変?!と言えるでしょう]

 

不遇な青少年時代

大老という地位についていることから、

さぞや輝かしい経歴の持ち主なのだろうと思ってしまいそうですが、
母親をわずか5歳で亡くしています。

さらに、青年になりこれからという時に父親も亡くしています。

苦労されています。
なにかと心細かったでしょうね。

嫡男ではなかった!

なんと井伊家の14男でした。

ちなみに母は正室ではなく側室でした。

ということは嫡男ではありませんね。

庶子ということになります。

てっきり嫡男で長男かと思ってしまいますよね。

兄の急死により井伊家の跡取りに!

人生、何が起こるかわかりませんね。

32歳の時に兄・直元の急死により第12代藩主直亮の世子になります。

跡取りとなったわけです。

19歳の時に弟とともに養子候補として江戸に行ったのですが、
採用されず一人彦根へ帰ったという悔しい過去があります。

当時、庶子は、
後継のいない大名家へ養子に入ることがよくありました。

それが庶子の幸せでもあったようです。

直弼もそう望んでいたのでしょうね。

ですが、叶わず・・・。

現状を受け入れ、
学問・武芸にさらに磨きをかけていきました。

生涯庶子として生きていくつもりだったようですね。

直弼は仏教への信仰が厚く、
禅の修行もしていました。

仏門へ入ろうと、
お寺も決めていました。

そんな矢先、いきなりの後継者としての抜擢。

ご本人驚かれたでしょうね。

意外?文化人だった!

ドラマや映画でご存知の方も多いと思います。

茶道をされたり、
和歌もさらりと詠まれていたり。

実は、なかなかの文化人でした。

武芸にも優れており、
文武両道の方でした。

一期一会 を広めました!

茶道に造詣が深く、
石州流という流派の茶道を学んでいました。

そこから独自の一派を作っていました。かなりすごいです。

「 茶湯一會集(ちゃのゆいちえしゅう) 」という本を執筆しています。

巻頭に、茶道の精神といえる言葉である「 一期一会 」 を書いています。

それにより、四字熟語として広まっていきました。

ちなみに、この本が完成したのは桜田門外の変が起こる前年でした。

書き始めたのは井伊家の跡取りになってからで、
激務の合間に書かれていたようです。

大好きな茶道に関わることで、
仕事とプライベートの切り替えをはかって自分の内面のバランスを保っていたのでしょう。

自分のことを「 朴訥者(ぼくとつもの) 」と言っていたそうで、
自分の意見をすらすらと話せる人ではなかったそうです。

和歌もお得意!!

和歌も好きでした。

お得意だったのでしょうね。

自作の和歌集もあります。

雅号は「 埋木舎(うもれぎのや) 」「 柳王舎(やぎわのや) 」。

「 埋木舎 」は不遇の青少年時代を過ごした屋敷に付けていた名前でもあります。

その屋敷は現在も残っており、見ることができます。

世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

という歌を詠んでいます。

自分を「 花の咲くこともない埋もれ木と同じだ 」としました。

そして、歌人として名高い小野小町や在原業平に自分の身を重ね、
埋もれながらも為すべきことがあるだろう、
と武芸、学問に精進していきました。

そういう境遇で培ったものが、
大老となって生かされましたね。

難しい政治情勢に揺れることなく当たることができました。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきありがとうございました。井伊直弼についていかがでしたか。

井伊直弼とは?簡単にまとめると

① 幕末期の江戸幕府大老

② 日米修好通商条約調印

③ 強気な決断力のある人

④ 文武両道

⑤ 教養のある文化人

⑥ 桜田門外の変で暗殺される

と言えるのではないでしょうか?

その他の記事についても井伊直弼にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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