細川忠興とはどんな人?簡単に説明【完全版まとめ】

 

乱世の続く戦国の世を、うまく生き抜いた人がいます。

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康とその時々の権力者のもとで、高望みをせず実直に生きてきたのです。

それでもその人物はその権力者たちに気に入られる器量を持っていました。

それが初代小倉城の当主となった細川忠興です。

今回は細川忠興とはどのように生きた人なのかエピソードを交えながらみていきたいと思います。

細川忠興はどんな人?

  • 出身地: 京(現在の京都市)
  • 生年月日: 1563年11月13日
  • 死亡年月日: 1646年1月18日(享年 83歳)
  • 美女と名高い細川ガラシャを妻に娶った

細川忠興 年表

西暦(年齢)

1563年(1歳) 京都に生まれる。(幼名、熊千代)

1573年(11歳) 織田信長に仕え、明智光秀の与力となる

1579年(17歳) 明智光秀の娘 たまと結婚(ガラシャはキリスト教の洗礼を受けた後の名前)

1582年(20歳) 本能寺の変で義父の明智光秀と敵対し、豊臣秀吉に仕える

1598年(36歳) 徳川家康に仕える

1600年(38歳) 妻のガラシャの死

1602年(40歳) 小倉城に移る

1620年(58歳) 三男の忠利に家督を譲り隠居。中津城へ移る

1632年(70歳) 肥後国へ転封となる。

1645年(83歳) 死去

短気な性格だった

細川忠興は家臣たちから天下一気の短い人だと言われています。

戦で降伏してくるものも容赦なく切り捨てたりする残忍な面があったようです。

妹が嫁いでいた一色家をだまし討ちにするなどかなり非情であったと思われます。

このことを恨んだ妹の伊也(いや)から斬り付けられ、その傷が彼の鼻の上に真一文字に残ったそうです。

 
天下一気の短い男の意外な一面。武具へのこだわりはこちら

医学や健康志向に興味があった

細川忠興はある日、徳川家康から漢方薬を見せられとても興味を持ちました。

それから自分で煎じて作るようになったといいます。

また食事にも気を遣い、バランスのとれた食事をとるようにしていたそうです。

まるで今の私たちのようですね。

ガラシャとの仲

細川忠興は美人の妻が大切だったようです。

明智光秀が謀反を起こすと、妻に危害が及ばないように幽閉してその身を守っています。

しかしキリシタンの乳母などの鼻や耳を削ぐという残忍な夫にガラシャは離婚まで考えていたと言います。

キリスト教では離婚は認められません。

ですから仕方なく一緒にいたようです。

一方夫は朝鮮に出兵している時も、豊臣秀吉に気をつけろと遠くからヤキモチを妬いていたようです。

自分は側室を何人も抱えていたと言いますから、なんだか偏った愛情ですね。

それでもガラシャは石田三成に人質に取られるとなると、自ら命を絶ち夫の足手まといになるまいとした覚悟も見られます。

妻の方にも全く愛情がなかったわけではなさそうです。

 
妻ガラシャの愛と悲劇!?の人生についてはこちら

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。細川忠興についていかがでしたでしょうか。

細川忠興とは?

①短期で非情な性格の持ち主

②自分の健康には気を使っていた

③ある意味愛妻家だった

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても細川忠興にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。










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