足利義満の生涯を年表でみよう

 

室町幕府3代目の将軍足利義満は、

南北朝を統一した実績のある人物です。

アニメにも登場して親しみを感じますが、

本当の足利義満はどのような生涯を送っていたのでしょうか。

今回は足利義満の一生を年代ごとにみてみましょう。

 

幼少期

1358年8月 足利義満の誕生

室町幕府を開いた足利尊氏が亡くなってからちょうど100日目。

1358年8月に足利義満は誕生しました。

父は尊氏の嫡男 足利義詮(あしかが よしあきら)、
母は紀良子(きの りょうし又はきの よしこ)という女性でした。

幼名は春王と言います。

義満の母は正室ではなかったのですが、
正室の渋川幸子(しぶかわ こうし)との間に生まれた千寿王が幼くして亡くなったため、
義満が後を継ぐことになりました。

義満の幼い頃はまだ南北朝が争っている時期でした。

その上足利家の内紛「 観応の擾乱(かんのうのじょうらん) 」も起き、
義満は播磨白旗城(兵庫県)へ避難していました。

幕府側(北朝)が勝利したため、再び京に戻りました。

 

家督相続

1367年 足利義詮死去

1367年の暮に父の義詮が病に倒れ亡くなりました。

義満は10歳で将軍職を継いだのです。

1374年 日野業子を正室に

1374年には日野業子(ひの なりこ)を正室として迎えています。

16歳で結婚したわけですね。

1378年 花の御所

1378年には「 花の御所 」を作り幕府をそこへ移しました。

義満は20歳になっていました。

父や祖父を超える勢いでどんどん出世をしていった義満は、

1383年に武家としては初めて「 源氏長者 」となりその地位も上がっていきました。

南北朝統一

1392年 明徳の和約

1392年58年間にもわたって続いた朝廷の分裂をついに終わらせました。

南朝の所持していた三種の神器(神話の中で天照大御神から授けられたとする鏡、玉、剣のこと)を北朝の後小松天皇に渡すことで南朝がなくなり、南北の統一がなされたのでした。これを「 明徳の和約 」といいます。

形ばかりの隠居

1397年 金閣寺建立

足利義満は1394年に息子の義持に家督を譲り隠居しました。

しかし、政治的な実権はまだ握ったままでした。

平清盛に次いで2人目の太政大臣にまで登りつめたのでした。

翌年には太政大臣も辞め、今度は出家します。

そして1397年にはあの金閣寺を建てたのです。

この時まだ九州や四国地方では幕府に反抗する者がいました。

1399年 応永の乱

1399年大内義弘が挙兵したのを見事に討伐し、ついに西日本で義満に対抗できる力はなくなりました。

これを「 応永の乱 」と言います。

明との貿易

1404年 明との貿易

義満は若い頃から中国との貿易を夢見ていました。

そして日本で1番権力を持つ立場になり、
1401年ついに明へ使者を送ることができ、
1404年には明との貿易が始まったのです。

これにより義満はより力を強めたのでした。

 

義満の最期

1408年 義満死去

1408年義満は病に倒れました。
義持たちは病気平癒のための祈祷や加持を行いましたが、ついに還らぬ人となりました。
享年51歳でした。

足利義満は、等持院で火葬され遺骨は鹿苑院に葬られました。

 

きょうのまとめ

足利義満の一生について駆け足で見てきましたがいかがでしたか。

祖父である足利尊氏よりずっと成長して権力を握った人物でしたね。

足利義満は金閣寺を建てた人としか知らないという方も多いのではないでしょうか。

実際にはすごい権力者だったんですね。

 

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