明智光秀はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

明智光秀

 

天下統一を間近にしていた織田信長を本能寺で滅ぼした

明智光秀

謀反人のイメージが定着してしまっている光秀ですが、

実際のところ明智光秀はどのような人物だったのでしょうか?

年表やエピソードを含めて詳しく解説していきます。

どうぞ最後までご覧ください。

 

明智光秀はどんな人?

  • 出身地:不明(岐阜県可児市の明智城という説あり)
  • 生年月日:1528年?(享禄3年)
  • 死亡年月日:1582年(天正10年)7月2日 (享年53あるいは54歳)
  • 織田信長を裏切り、「本能寺の変」を起こした人物。

 

明智光秀 年表

年表
西暦(年齢)

1528年(0歳)明智城にて生まれる。(「明智軍記」の記述による。)

1556年(28歳)斎藤家の内紛により美濃から逃亡。流浪の日々を送る。

1562年(34歳)加賀一向一揆に朝倉方について参戦し活躍。

1568年(40歳)足利義昭の命により信長の下へ。信長の配下となる。

1571年(43歳)比叡山焼き討ちで手柄を立て、近江国(滋賀県)5万石を与えられ大名となる。

1579年(51歳)丹波国(京都府、兵庫県、大阪府の一部)を平定した手柄により丹波一国を与えられて34万石の大名となる。

1581年(53歳)信長が行った大規模な軍事行事、京都御馬揃えの責任者を務める。

1582年6月21日(54歳)本能寺の変を起こし、織田信長、信忠親子を自害に追い込む。

1582年7月2日(54歳)山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、落武者狩りに遭い、殺害される。

 

明智光秀の生涯

謎が多い光秀の前半生

光秀はその出身地や出自、
若い頃にどのような行動をとっていたのか極めて謎が多い人物です。

正確な記録については現在に至るまでよく分かっていません。

光秀について書かれた軍記物である「 明智軍記 」によると、
光秀は美濃国(岐阜県)を治めていた土岐氏の一族で、
土岐氏から美濃を奪って大名となった斎藤道三に仕えていました。

しかし、
斎藤家の内紛により起こった長良川の戦いで一族が討死を遂げていく中、
光秀は逃げ延びて諸国流浪の日々を送り

苦難の末に越前国(福井県)の朝倉義景に仕えることになったといいます。

 

[関連記事 :謎の多い人物?!光秀の用いた家紋。そのルーツとは?]

信長の下で飛躍

光秀が朝倉家に仕えている時代に、
後に室町幕府の将軍となる足利義昭が

京への上洛を援助してもらうために、
朝倉家の下へと頼ってきます。

この時に光秀は足利義昭と接点を持ったと考えられており、
光秀は信長の正室である濃姫の縁者だったと言われているため
義昭は光秀を信長の下へと使者に送りました。

しかし、
これが結果的に光秀が自らの名を上げるきっかけとなり
信長の下で数多くの合戦に参戦し、
その度に手柄を立てた光秀は34万石の大大名へと出世します。

 

[関連記事: 仲が悪かった?!光秀と信長の関係とは?]

突然の謀反と最期

1582年、
光秀は中国地方で毛利家と戦っている羽柴秀吉の援軍として
大群を率いて秀吉の下へと向かうはずでした。

しかし、光秀は自らの率いていた軍団を
信長が滞在していた本能寺へ向かわせます。

そして光秀は謀反を起こし、
信長親子を殺害。

「 本能寺の変 」を起こします。

光秀はそのまま畿内の政権を把握して天下に覇を唱えるつもりでしたが、
中国地方から驚異的な速さで戻ってきた羽柴秀吉の軍勢と激突。

山崎の戦いが起こります。

充分な味方を集めることができなかった光秀は秀吉に敗北。

居城である坂本城に向かっている最中、
落武者狩りの農民に襲われてその生涯に幕を下ろしました。

 

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明智光秀にまつわるエピソードや伝説

百発百中の腕前を持つ鉄砲の名手

光秀が朝倉家に仕えている時、
主君である朝倉義景の前で鉄砲の腕前を披露することになった光秀。

わずか30センチ四方の的に、
約45メートルの距離から100発の弾を発砲して、
1発も的から外すことが無かったと伝わっています。

中心に当たった弾の数は68発、
残り32発も全て的に当てており、
相当な腕前を持っていたと「 明智軍記 」には記されています。

他にも飛んでいる鳥を鉄砲で撃ち落としたというエピソードも伝わっています。

愛妻家だった

戦国時代には珍しく、
正室である妻木煕子(つまきひろこ)が存命中の間は他の側室を置かなかったと伝わっています。

煕子が光秀と婚約を結んだ後、
煕子は疱瘡(天然痘)にかかってしまい、
完治したものの顔に痕が残ってしまいます。

そのことを恥じた煕子の父は光秀の下に、瓜二つだった煕子の妹を送りました。

しかし光秀は煕子の顔にほくろがあったことを覚えており、
妹は顔にほくろが無かったことからこれを見抜き

難病にかかっても、それは仕方のないことだから是非煕子を私の下に送っていただきたい。

と、光秀は煕子の実家に手紙を送り、
それを読んだ両親は感激して煕子を光秀に会わせて二人は晴れて夫婦の関係となりました。

煕子はこの一件を生涯忘れずに
光秀の言うことには必ず従ったと伝わっています。

したたかな一面も持ち合わせていた

宣教師ルイス・フロイスが記した「 日本史 」にある光秀の人物評は

  • 「 裏切りや密会を好み、その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受け、己を偽装するのに抜け目がなかった。 」
  • 「 戦においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人だった。 」
  • 「 刑を科するに残酷。独裁的でもあり、戦いには優れた熟練の兵士たちを使いこなしていた。 」

などと書かれており

光秀が戦国の世を生き残るのに
必要な知力、統率力、したたかさを持っていたことがわかる記述となっています。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

明智光秀という人物は

① 本能寺の変で織田信長を滅ぼし、下克上を果たした奸雄

② 放浪の日々を送り、大成した苦労人

③ 妻である煕子を愛し続けた愛妻家

④ 狡猾さも併せ持つ、計略、策謀の達人

であったと言えるのではないでしょうか。

明智光秀については他にも様々な記事を書いています。

興味がある方はどうぞご覧になってください。

 










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